ラバウル
らばうる
ラバウル市
1910年、当時ニューブリテン島を植民地としていたドイツが建設したが、第一次世界大戦の勃発により1914年、オーストラリア軍が占領し、1919年のヴェルサイユ条約以降、オーストラリアによる国際連盟委任統治領となった。
太平洋戦争が勃発すると、1942年1月23日に日本軍により占領され、陸海軍計約9~10万人の兵力を擁する一大拠点となり、ラバウル航空隊はガダルカナル島を巡って激戦を続けた。
人海戦術により全長200kmを超す穴が掘られ、大要塞を構築した。
連合軍側はラバウルに戦略的価値が無く、占領に多大な損害が伴うと判断し、1943年4月26日にダグラス・マッカーサー大将が発令したカートホイール作戦ではラバウル基地は攻略しない事に決まっていた。
1943年11月5日、アメリカ海軍空母サラトガ、プリンストンがラバウルを空襲。タロキナへの逆上陸支援のため集結していた日本海軍艦艇は大損害を受け、トラック基地へ後退した(ラバウル空襲)。
12月15日、アメリカ海兵隊がニューブリテン島に上陸。西半分を占領しラバウル基地を孤立化した。連合軍側はそれで満足し、次の戦略目標へ向かう(飛び石作戦)。
1944年2月17日~18日、トラック基地がアメリカ海軍による大空襲を受け、ほぼ全ての航空機が破壊されたため、ラバウル航空隊はトラック島に引き揚げた。
戦線後方に取り残されたラバウル基地に本土からの補給は絶えたが、陸海軍の将校や兵士が協力し、食糧生産、器具、農具、兵器、薬品、日用品を現地で製造する事で自給自足を行ない、終戦まで維持された。
兵はあばら骨が浮き、栄養失調で腹水がたまっていたが、他の戦線(餓死寸前)よりはマシだった。
1994年、近郊のタブルブル山とブルカン山が噴火し、ラバウル基地の史跡も火山灰に埋もれた。