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寺原隼人の編集履歴2018/11/28 01:35:01 版
編集内容:所属球団変更に伴い修正

概要

宮崎県出身。日南学園高時代は井手正太郎と同級生。宮崎県内では神内靖と並ぶ屈指の好投手だった。そして3年夏の甲子園大会予選ではノーヒットノーランをマーク。甲子園では154km/hをマークした。

その後のIBAFワールドカップでは高校生で唯一日本代表に選出。

2001年ドラフト会議では福岡ダイエーホークス(現福岡ソフトバンクホークス)、中日ドラゴンズ読売ジャイアンツ横浜ベイスターズ(現横浜DeNAベイスターズ)から1位指名を受け、抽選の末福岡ダイエーに入団。

ルーキーイヤーは開幕を二軍で迎えたものの、一軍で初登板初先発を果たす。この年は6勝をマークした。2003年には初完投勝利をマーク。先発ローテ入りし斉藤和巳和田毅新垣渚とともにSWATと言う名のグループを結成した(ただし4人そろっての活動はしていない)。この年は7勝。2004年2005年は故障に苦しみ未勝利。2006年に3年ぶり勝利を挙げるものの3勝どまり。オフに多村仁志とのトレードで横浜ベイスターズに移籍する。

移籍1年目の2007年は自身初の規定投球回到達、二ケタ勝利をマークし12勝。2008年には開幕投手に指名され、その後クローザーに転向。チームが低迷しており登板機会は抑えとしては少ないものだったが22セーブをマークしている。2009年は先発に復帰したが、けがに泣いて2勝どまり。2010年には登録名を寺原早人に変更したが4勝どまり。オフに高宮和也とともに山本省吾喜田剛とのトレードでオリックス・バファローズに移籍。

オリックス移籍1年目の2011年は古巣・福岡ソフトバンク相手に2007年以来の完封勝利をマーク。その後も金子千尋西勇輝らとともに先発ローテの一角として12勝をマーク。チームのクライマックシリーズ争いに貢献した。2012年はケガに泣いて6勝どまり。オフに福岡ソフトバンクホークスへFA移籍した。

その後は主にリリーフとして起用されていたが、2018年シーズン終了後戦力外通告を受けた。同年オフに東京ヤクルトスワローズへ入団。

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