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妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリの編集履歴

2019-03-11 11:28:13 バージョン

妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ

みょうじゅんでんじそはやのつるきうつすなり

三池典太光世作とされる太刀。徳川家康の遺愛刀としても知られる。

曖昧さ回避

妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ


  1. 平安時代刀工・三池典太光世により作られたとされる日本刀。この項目で記述する。
  2. 1の刀剣をモチーフに擬人化した、ブラウザゲーム『刀剣乱舞-ONLINE-』に登場する刀剣男士。→ソハヤノツルキ(刀剣乱舞)

ここでは1.について述べる。


概要

平安時代末期から鎌倉時代に活躍した筑後国の刀匠三池典太光世作と伝わる日本刀太刀)。

ソハヤノツルキソハヤノツルキウツスナリとも。


刃長67.9cm、元幅3.9cm、先幅2.8cm、反り2.5cm。


生ぶ無銘であるものの茎の裏に「妙純傳持ソハヤノツルキ」、表には「ウツスナリ」と切付銘が刻まれている。この切付銘は室町時代のものと考される。

「ソハヤノツル」と表記して「そはやのつる」と読むが、古文書同様に濁点を省略しているとも考えられることから「そはやのつる」とも読まれる。ただし読みに限っての推測であり、表記にまで濁点を付けて「ソハヤノツルギ」としている例もみられるが、どのような理由があれ濁音表記を"あえて行う"のはしてはいけないので注意。多少の混同はご愛敬。


切付銘の考察

意味

茎に刻まれた切付銘(銘文)をそのまま解釈すれば妙純が所持したと伝えるソハヤノツルキを写したとなる。

ただし解釈に定説はなく、史料に乏しいため意味不明とされている。


書体

刀身は平安時代末期から鎌倉時代の作風とされるが、切付銘の書体は古くても室町時代のものとみられる。

この事から、ソハヤノツルキが作られた時点では切付銘は無く、後世に刻まれたと推測できる。


手本となる太刀を本歌として作成された写しではなく、無銘の太刀の茎に後からソハヤノツルキの号(名称)だけを借用したのではとみられる。


妙純傳持

妙純については、室町時代中期の美濃国守護代・斎藤利国の入道名が妙純であることから、斎藤妙純が所持したのではないかとの推測がある。

もし妙純が所持していたのであれば、彼を慕った者が妙純を偲んで妙純傳持の切付銘を刻んだと考えられるが定説ではない。


ソハヤノツルキ

ソハヤノツルキについては、坂上田村麻呂伝説ソハヤノツルギ(ソハヤの剣、ソハヤ丸)の写し説、熱田神宮別宮八剣宮の御神体である八剣のうちソハエの剣(そはえのつるぎ)の写し説など、複数の説がある。


ソハヤノツルギは、坂上田村麻呂をモデルとした『すすか』『鈴鹿』『鈴鹿草子(田村草子とも)』『田村三代記』など坂上田村麻呂伝説に登場する聖剣絵巻浄瑠璃などの物語に登場する架空の武器ではあるが、ソハヤノツルギの逸話が仮託された大刀に騒速がある。


ソハエの剣は、ソハエ→ソハヤの転化であるとの考察によるもので、八剣宮の八剣は「天叢雲剣草薙剣、東夷討取の剣、十拳剣、人母鬼の剣、鬼討取の剣、楚葉矢の剣、矢尻の笹穂型の槍」とされる。しかし天叢雲剣と草薙剣が同一の剣である事や、草薙剣は熱田神宮に祀られている事から八剣の話自体が創作の可能性もある


何れにせよ、無銘の太刀の茎に後からソハヤノツルキの号(名称)だけを借用したとみられるため、ソハヤノツルキが架空の武器や刀身の形状が異なっていても写しとして成立する


家康の遺愛刀

伝来は不明であるが徳川家康の手に渡ると、家康は行光作の脇差と揃えでソハヤノツルキウツスナリを愛刀とした。

大坂の陣で豊臣家を滅ぼした家康は、徳川幕府を脅かす者がいるとすれば西国にあるとして、この太刀を自らの依り代として久能山東照宮にて切っ先を西に向け安置するよう遺言したという。


余談

久能山東照宮では「重要文化財 太刀 妙純傳持 ソハヤノツルキ ウツスナリ」の他に、宮入昭平氏による「太刀 妙純傳持ソハヤノツルキウツスナリ 奉納久能山東照宮御宝前(三池写し)」も所蔵している。混同に注意。


関連タグ

刀剣 ソハヤノツルキ

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