多神教
たしんきょう
解説
大雑把に「神様が沢山いる宗教」としてくくられる。同義語、あるいは同義的に使われる言葉として汎神論(アニミズム)という言葉がある。
多くの神々が崇拝されるので、信仰のあり方、理念が同じ宗教の中でも多数存在し、時には矛盾するものさえあるのが特徴である。また、特定の意思決定権を持つ最高神が不在(アイヌのカムイなど)であるか、いても神々それぞれの主張が尊重される(あるいは押し通される)傾向にある。大体、太神の嫁に収まる女神は、地母神の属性を持つものが多いため、パンテオンができた際にその性格が特出したり出なかったり3分裂したりする。
元々は一神教のように一つの信仰対象を持っていた勢力が、他の勢力と接触したり征圧したりするうちに、似たような他の信仰対象を吸収し、気が付いたら多神教(的)になってしまっていたパターンも多い。多神教のカオスさ=他の神をある程度尊重してメンツを立てるスタイルの根源には、このような歴史的経緯から来る経験則がある(無論、完全制圧して忘却させるパターンもあったのだろうが…)。大体「男神」を拝んでるところが地方の「女神を拝む」所を同化してそこの神様を神様体系に組み入れるので、主神はゼウスにしろダグダにしろ「そこに女神(や人間の女など)がいるから」こまし続けるというアルピニスト的な性格を持ってしまう。
古代エジプトでは、覇権争いの嵐の果てに統一王朝成立時には「その辺で拝まれていたネコ科の形をした神」が「遠方から来る稀人」として体系化され、崇拝されていた。
(なお仏教も基本的には多神教とされているが、汎神論または無神論的な宗教であるという見解もあり、議論が分かれている部分もある。後述)
「多神教」という言葉の用法
「一神教(的)」が唯一神教以外に対しても使われるように、「多神教(的)」という言葉も、多神教以外にも使われる。
また、儒教や道教のような根底で神的力作用を否定していたはずの論理体系も、外(非東洋世界)から見れば立派な多神教として扱われる。
対義語は一柱の神を信仰する一神教だが、そもそも「多神教」という言葉自体が一神教との対比で名付けられている。そうなれば当然ながら「多神教」という言葉自体に「カオスなもの」「未整理なもの」転じて「猥雑なもの」「幼稚なもの」というイメージが含まれている場合もある※。
これらのイメージはキリスト教徒が振り返ってローマ帝政時代を批判するときに繰り返されたフレーズから来ている。その後ヨーロッパが歴史の中で膨張し、行く先々で多神教的世界観と接触したため、キリスト教徒からすれば「未開発なもの」「非文明的なもの」という否定的イメージが加速した。
が、あまたの意識革命とキリスト教批評を経過するとさらに意味は転じ、今では「エキゾチックなもの」「神秘的なもの」「文明に触れる前の抑圧されていない人間の本質的で芸術的なもの」という肯定的なイメージすら付きまとうようになった。
※当然ながら、一神教から見た多神教のイメージであり、多神教にロゴス(秩序=ロジック)がない訳ではない。また、後の文明圏が喧伝したように、自由でも無ければ抑圧が無いわけでもない。彼らには彼らのルールがあるが、外から見るとわけがわからないのだ。
多神教が無神論と呼ばれるケース
多神教には様々な神がいる。様々な信仰があり、信条があり、信念がある。
それは時に、同じ枠の中で互いを否定し、打ち消し合い、無意味化する場合すらある。
「Aでもあり、Aではない」と平気で言ってしまえるのが多神教の恐るべき所であり、魅力でもある。
仏教とその背景となるインド神話の経典には、複数の神々が登場する。現存する経典で最も古い阿含経(アーガマ)でもそれは変わらない。
仏陀の称号の一つに「天人師」がある。これは「神々と人間の師匠」という意味である。アーガマを含めて経典通りに信じる仏教徒の目線からは、仏教はそもそも神々の存在を前提とした宗教であると言える。
しかし、仏教は無神論とも呼ばれる。万物は縁起の集合霧散によってあたかも存在しているかのように見え、それを認識する人間の視野や発想力こそが万物を形成する(跳躍もとい超訳)。そのように考える仏教においては、最高神がいようといまいとあまり変わりないので肯定も否定もしない。(禅宗に至っては「仏が出たら仏を殺せ」とまで言っている。)
このような理論体系の中に最高神を規定し、崇拝する姿勢が無いので、「仏教は無神論だ」とか、「仏教は神を持たないので宗教ではない」という発言を目にすることもあるだろう。
また仏教の大本であるインドの世界観は輪廻転生を始めとした〝円環する世界観〟を有するので、創造主(創造神)の存在を認めず、神々もまた迷える衆生とする解釈もある。神々のリストを共有するヒンドゥー教でも下位の神々は限界を持ち、ヴィシュヌやシヴァのような主神は絶対的な至高者とされるが、仏教では至高者(主宰神)としての神も認めない。万象は神も含めてすべて縁起の中から逃れられないのである。(大乗仏教においても天部の神々は 業・輪廻を逃れられないとされ、その地位は「悟りを開いた人」である如来、明王、菩薩より下である。)
古代多神教を近現代に復活させる新異教主義(ネオペイガニズム)の北欧神話版である「アサトル協会」は神話に登場する神(オーディンなど)の実在を認めず、あくまで自然の力や人間精神の象徴としている。
かつていた北欧神話の信者からすれば、彼らは無神論者であるのかもしれない。
儒教や道教は、宗教というより説教のイメージが強いかもしれないが、外から見れば立派な多神教である。しかし儒教的理論体系から分派して誕生した道教では数々の神や仙人等が崇拝されながらも最高位に存在するのは孔子や天子等の人間であり、その孔子自体が「怪力乱神を語らず」と神性の力学思考自体真っ向から否定していた(「天を拝む」と論語にあるなど諸説あるが)。
あれだけ廟をハデハデにデコっておきながら、理論の根底には無神論が存在している。これは仏教も同じである。