概要
高校卒業後社会人野球の富士製鐵釜石(後に新日本製鐵釜石、1988年廃部。会社は新日鐵住金を経て現・日本製鉄)に入社、1967年のドラフト会議で、西鉄ライオンズから11位で指名を受けるが拒否。
1968年にから阪急ブレーブスに入団。この時練習中に脊椎分離症で腰を痛めており、チームに残ってリハビリに励む。腰痛から完治した1969年8月の都市対抗終了後、正式契約を結び入団。
山田が入団した頃の阪急は米田哲也、梶本隆夫、石井茂雄、足立光宏など一流投手が集まった投手王国だったため、このチーム内で活躍できるかどうか不安だったという。
だが、1970年に初完封勝利を挙げると、この年は10勝をマーク。名実ともに阪急の主力投手へと登り詰めた。一説によると、当時の彼の球速はアンダースローであったにもかかわらず、150キロ近くをマークしていたという。入団3年目の1971年には22勝を挙げ、最多勝のタイトルを獲得した。1975年から1986年まで12年連続で阪急の開幕投手をつとめ、アンダースロー投手としては日本プロ野球最多となる通算284勝を記録した。1988年に引退。
その他
2002には中日監督に就任。初年は3位だったが翌年は成績不振で9月に解任。(残り試合はヘッド兼打撃コーチの佐々木恭介が監督代行を務めて最終的に2位に。なお佐々木は1996年から1999年まで近鉄監督を務めた。)