概要
南部に拠点を持つ勢力が北部へ攻撃することで、中国の歴史では何度か行われている。
もっとも、北部の勢力からすれば南部からの侵略とも取れる。
下記はその例である。
蜀漢
結果 失敗
蜀漢は漢(後漢)の正当な後継王朝を称し、諸葛亮や姜維が度々北部を領有する魏(曹魏)へ攻撃を仕掛けたが国力差その他の理由で失敗し、逆に魏の侵攻を受けて滅びる結果となった。
東晋
結果 失敗
上記の魏の後継政権である晋も諸々あって北部領土を失い、南部に東晋として再興した。
当然、失われた北部領土を奪回しようと何度か攻撃するも失敗し、東晋王朝は家臣の劉裕に禅譲させられて滅亡した。
後周
結果 やや成功
五代十国時代終盤の後周の皇帝柴栄は遼の支配する国境北部の燕雲十六州を奪回(厳密には後周王朝の時代に奪われたわけではないのだが)しようと攻撃した。
十六州中、二州の占領に成功し、さらに侵攻するも柴栄は病死して後周軍は引き上げることになり、中途半端に終わってしまった。
明
結果 やや成功?
明にとってモンゴルは仇敵であり、再三征服しようと戦争を繰り返した。
万里の長城以南の奪回には成功したものの、モンゴル高原の征服には失敗し、逆に皇帝が捕虜になるなどの大敗を喫することもあった。
太平天国
結果 失敗
清の南部に建国した太平天国は北部も征服しようと攻撃するも英仏などの協力と各地の義勇軍(郷勇)を使った清の反撃で失敗し、太平天国自体も滅亡した。
中華民国
結果 成功
清が辛亥革命で滅亡すると中華民国を名乗る政府が複数成立し、その他にも軍閥の支配領域が各地に存在した。
このうち南京を拠点とする蒋介石率いる国民党政府が各地の軍閥や政府を征服し、中華民国を統一した。
関連項目
大陸反攻:上記の後、台湾島周辺のみの支配勢力となった中華民国が計画した中国大陸を支配する中華人民共和国への攻撃計画。広い意味では北伐の一種。