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卜部季武の編集履歴

2019-08-26 15:21:29 バージョン

卜部季武

うらべのすえたけ

日本の平安時代中期の武将。源頼光に仕え、頼光四天王の一人として有名。

概要

生誕天暦4年(950年)?
死没治安2年(1022年)?
主君源頼光

実在性の議論

戦国時代田村清顕の一人娘で、伊達政宗の正室・愛姫の実家となる田村氏は、坂上田村麻呂の子孫を称したことで有名である。


愛姫と同時代に、同じく田村麻呂の子孫を称した34代目山本荘司・坂上頼泰という坂上氏の人物がいる。頼泰は多田院御家人として足利義輝に仕えていたが、同じ多田院御家人で中世以降は筆頭にあった塩川伯耆守が織田信長に降ると、坂上氏の本拠地である山本郷は攻められて塩川氏の領下となって衰退した。この頼泰から遡ること3代目山本荘司が坂上季猛である。


山本荘司家は、摂津守となった源満仲が多田に政所を設けたとき、全国30ヵ所以上に散在していた坂上党武家団を必要とし、坂上党の棟梁で山城国愛宕郡八坂郷に住む検非違使従五位上明法博士右衛門大尉坂上頼次に参画を求めたことに始まる。これを承諾した頼次は満仲から摂津介に任命されると、坂上党から選りすぐった「坂上本家十二流」(金岡、浦辺、辻、柏葉、桧隈、田村、泉、左、玉造、山本、東、安潟)を配して山本郷内に配置し、西政所、南政所、東政所を統括して清和源氏の本拠地である多田院を警衛した。和泉国高師の浦に住んでいた浦辺七良坂上季長・季猛親子を呼び寄せた頼次は、清和源氏の家臣団に弓馬などの武術の指導をさせると、季長親子に後を託して山城国へと帰った。その後は浦辺坂上氏が山本荘司職を代々継承され、坂上季猛が坂上党武家団の棟梁を継ぐと、3代目山本荘司として源頼光に仕えた。


地元の伝承では、渡辺綱を筆頭とする頼光四天王の一人と称された浦辺太郎坂上季猛は、坂上氏の中祖である田村麻呂の遺品である御持弓を御神体として山本荘に将軍宮松尾丸社を創建したという。他にも『浦辺観世音尊像日記』(蝸牛廬文庫)などに名前が残されている。


従来は説話研究などから卜部季武についての実像が検証されてきたため、多田院御家人の坂上氏から研究されることはほとんどなかった。

浦辺太郎坂上季猛の事績が卜部季武に反映されているのかなど、今後の研究の成果が待たれる。


説話・物語

卜部季武の説話は『今昔物語集』や『古今著聞集』に残されている。

ただし「説話文学」であり、「歴史史料」ではないことから、内容をそのまま受け取れず、史実での事績がどのくらい反映されているのかなど、今後の説話研究の成果が待たれる。


今昔物語』には卜部季武として源頼光の3人の家来の1人として記されている。季武は弓の名手として知られており、鹿島流武芸を身に付けていたともされる。


慶応義塾大学図書館蔵の絵巻『しゆてんとうし』では「ひせんの国」(備前国もしくは肥前国)「よしをか」の「もりつね」という鍜冶が打った「あさまる」(あざ丸?)を所有している。


他に神楽「土蜘蛛」「子持山姥」「滝夜叉姫」に登場することでも有名。


関連タグ

武士

坂上氏 坂上田村麻呂

源頼光 頼光四天王

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