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司馬師の編集履歴

2020-02-08 16:50:16 バージョン

司馬師

しばし

中国三国時代魏の武将、政治家。

司馬師とは

司馬 師(しば し、208年 - 255年)字は子元。廟号は世宗、贈号は景帝。

司馬懿の長子で、司馬昭司馬幹の同母兄。生母は張春華(贈穆皇后)。


来歴

彼は上品で立派な容姿の持ち主で、沈着冷静、先見の明に長けていた。若いときから評判が高く、夏侯玄や何晏らと名声を等しくした。何晏は常々、司馬師を称えて「ただ司馬子元だけが、天下の務めを果たすことができる」と言っていた。

魏の景初年間に散騎常侍を拝命し、中護軍(中領軍とともに皇帝の近衛兵の指揮をする役職)に昇進する。


司馬師は司馬懿と共に曹爽に対するクーデターの計画を練ったが、弟の司馬昭すら兄の考えを知ることはできなかった。

249年、クーデター決行日の早暁、司馬師は司馬孚と共に速やかに洛陽宮城の城門を押さえ、内外を鎮撫した。その整然とした陣容を見た司馬懿は「子元もやるようになった」と言った。


251年に司馬懿が亡くなると「伊尹既に卒するも、伊陟事を嗣ぐ」と言われ、撫軍大将軍として魏の全権を掌握した。252年(嘉平四年)には大将軍になった。


252年、胡遵諸葛誕らに呉の東興を攻めさせたが、呉の大将軍の諸葛恪に大敗を喫した。

しかし翌年、諸葛恪が大軍を率いて合肥新城に攻め寄せると、一族の司馬孚を援軍に向かわせ、逆に諸葛恪を撤退させた。

のちに敗戦の責任を追及された諸葛恪は孫家の一族孫峻に殺害される。


254年には皇帝曹芳が、一族の夏侯玄らと語らって司馬師を排除しようと考えた。

これを未然に察知した司馬師は、皇帝曹芳を廃し曹髦を新皇帝に擁立する。


この一連の司馬師の行動に過敏に反応したのが、生前夏侯玄と親しかった毌丘倹文欽であった。結果毌丘倹文欽は共謀して寿春で反乱を起こすに至る。

しかし、司馬師の専横に危機感を覚えたからこその急造同盟であり、

平時からの仲はお世辞にもいいとは言えないもので、結果反乱は早くに鎮圧された。


しかしこの反乱鎮圧の最中、文欽の息子文鴦の奇襲を受け古傷が悪化した司馬師は、この反乱後しばらくして許昌にて死亡。(創作物だと、目の腫れ物が悪化して死ぬ、奇襲を受けた時に目が飛び出てそこから悪化してしんだとか書かれている。)男子がおらず司馬昭の息子を養子にしていたが、その養子が司馬昭の息子司馬炎の弟であることを考慮し、司馬昭に後を託した。


主な登場作品

真・三國無双シリーズ

司馬師(真・三國無双)を参照


三国志大戦シリーズ


三国志シリーズ(コーエー)


関連タグ

三国志 真・三國無双 父司馬懿 弟司馬昭

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