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松原忠司の編集履歴

2020-03-30 09:58:56 バージョン

松原忠司

まつばらちゅうじ

松原忠司とは、幕末に活躍した『新撰組』の隊士で、新撰組四番隊組長。

概要

幕末に活躍した新撰組の四番組長、柔術師範。

播磨国小野藩(現:兵庫県小野市)の藩士の子として生まれたとされ、初名は小太郎。

大坂関口流柔術(北辰心要流不遷流とも言われる)の道場を開いていたといわれている。

文久三年(1863年)5月までに新撰組に入隊。


温厚な人物として知られており、壬生の近辺からは山南敬助と共に、「親切者は山南と松原」という言葉が伝わっている。

会津藩薩摩藩が中心となった公武合体派が、長州藩尊王攘夷派を京都から追放した、『八月十八日の政変』では、自分にがないことに立腹した山南を、松原が宥めたという逸話がある。

また同政変の際には坊主頭に白ハチマキを巻き、薙刀を携えた姿で出動したことから、『今弁慶』の異名をとったという。


池田屋事件では土方歳三の隊に属し、15両の報奨金を受領した。


慶応元年(1865年)9月1日に死去。何らかの理由で平隊士に降格処分を受け、切腹未遂を起こし、その傷が化膿して死亡したといわれる。

子母澤寛の小説『新選組物語』では、自信が殺害した浪士の妻を妾として囲ったことを土方に咎められ、その妾と共に心中したという話が紹介されている。


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