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滝川一益の編集履歴

2011-12-31 21:07:16 バージョン

滝川一益

たきがわかずます

滝川一益とは戦国時代の武将。織田家に仕え活躍した。(1525~1586)

名の読みは『いちます』とも言われている。

戦の駆け引きに優れ、攻めも退却も得意であったことから『進も退くも滝川』と称された。

また、織田信長の元で実力を発揮し、勝家長秀光秀の三人と並んで『織田四天王』の一人に挙げられる。

概要

近江の生まれで、父が甲賀の出身であったことから元は六角家の家臣だったと言われる。

信長に仕えた時期は不明だが、鉄砲の腕前を買われて仕官。その後家中で頭角を現し、徳川家康との同盟交渉(清洲同盟)の席に立っている。

織田政権初期時には美濃と隣接する桑名を初め、主に伊勢、志摩の平定や支配、有力勢力の懐柔を担当した。

長島一向一揆が発生した後は北伊勢で一揆勢と争いながら、家康の後詰めや朝倉攻めなどで各地を転戦し、九鬼嘉隆と共に度々水軍も率いて対本願寺線、対毛利戦にも活躍を残す。本願寺に通じて織田家を裏切った荒木村重の有岡城(伊丹城)を調略によって崩壊させ、物資の補給路を断つのに一役買った。本願寺の降伏後(石山合戦終戦後)は関東との取り次ぎ役に就任。同じ役職だった佐久間信盛が追放されたこともあり、関東の諸大名、特に北条氏との取り次ぎを行う。

武田征伐に際して大将、織田信忠の軍監として実質上の指揮官を務め、武田勝頼が天目山で自害した後には領土として上野一国と信濃の一部を与えられ、関東管領と等しい権限も認められて、関東鎮定を担当する。しかし、本能寺の変で信長が横死するとまだ上野国人衆の掌握が盤石でない状態で北条氏に攻められ、一度は撃退に成功するも衆寡適せず惨敗し、伊勢に退去する(神流川の戦い)。

上記の敗戦に加え、関東から退去している間に清洲会議が行われて一益不在で後継者が決定されてしまい、織田家での影響力が低下する。

羽柴秀吉柴田勝家の争い(賤ヶ岳の戦い)では勝家側に付くが、勝家の死後に降伏、所領を没収される。秀吉が織田信雄、家康と敵対した際(小牧・長久手の戦い)は秀吉の味方をして旧領の蟹江城を落とすがその後、家康と信雄に包囲されて降伏する。

戦後は秀吉に三千石を与えられ、秀吉の北条征伐にも外交で関与しながらそこで余生を過ごした。享年62歳。


その他

四天王の一人ということもあり、なにかの作品に登場する時は概ね有能な人物として描かれる。

関東在任期間中の上野や信濃の国人衆には上々な評価を受け、信濃で有名な真田昌幸真田信繁(昌幸)とも旧知の間柄となる。

一介の地侍という出自から考えれば、織田家では秀吉の次に出世した人物とも言える。ただし地味。実際には転戦に次ぐ転戦で各地にて戦果を上げていたのだが、信長本人の主戦場と云える位置からは若干外れた場所で活躍していたこともあり、人によっては米五郎左よりも地味な扱いをすることもある。

織田家重臣に多い『晩年は不遇』な人物の一人で、大徳寺の信長の法要に出かけた際は「滝川殿の関はありませぬ」と、秀吉にすげなく追い返されている。


戦国大戦において

落書き


織田家の武将として参戦。レアリティは最上位のSR。

甲賀出身ということから忍者説が存在し、戦国大戦でも採用されて特技・忍を持つ。

この特技のため、戦場でも相手に位置を把握させず行動しやすい。


計略「撹乱貫通射撃」は自身の射撃に命中時に相手の統率力を下げ、貫通させる特殊な効果を得るもの。

これ自体で即座に勝負が決まることは少ないが、上述の特技と合わせ、相手からすればいきなり厄介な射撃を試合中に何度も受けることになる。

彼を活かせるかどうかはその奇襲効果次第となる。


pixiv内でのイラストの大半は『戦国大戦』関連である。

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