内閣総理大臣任期:昭和11年3月9日~昭和12年2月2日
概要
第32代内閣総理大臣。
東京帝国大学法学部卒業。外務省に入省して世界各地を外交官として渡り歩き、オランダ公使や駐ゾビエト連邦特命全権大使を歴任した。
昭和8年に斉藤実内閣で外務大臣として初入閣し、以後4人の総理大臣の下(内1人は広田自身)で外務大臣を務めた。総理大臣就任前の外相時代は協和外交を推し進め、当時強硬姿勢であった中国に対し融和的な態度を取るよう外交姿勢を改め、「私の任期中には戦争は起きないと確信している」と議会で述べる程であった。
昭和11年、二・二六事件の責任を取り岡田啓介内閣が辞職したのを受け、広田は組閣した。組閣後は、前内閣の総辞職の原因である二・二六事件の関係者の処罰や移動など軍部に対する大規模な粛軍を行った。しかし、この過程において、長らく廃止になっていた軍部大臣現役武官制(陸海軍大臣を現役の軍人から出さなくてはいけないという制度)を「二・二六事件に関わっていた可能性があった軍の予備役を軍の大臣として入閣させないため」という口実で復活させてしまい、軍部に内閣への干渉の手段を与えてしまった。この措置は、後に広田内閣総辞職の原因(その制度により入閣した陸軍大臣と他の大臣が議会の解散を巡って対立した)となったばかりか、終戦後戦犯として逮捕される要因にもなってしまう。
終戦後、広田はA級戦争犯罪人容疑者として連合国軍に逮捕され、極東軍事裁判に掛けられた。そして裁判の結果、広田は文官として唯一の死刑判決を受け、昭和23年12月23日に絞首刑に処された。広田への死刑判決は、広田に対し戦争回避に尽力したイメージを強く持っていた多くの日本国民に衝撃を与えた。
事実、広田は戦前は戦争回避に、戦中は和平交渉に尽力しており、一部の行いを除けば戦争を助長するような行いは殆どしていなかった。また、判決においても、担当判事11人の内、5人が死刑を回避する判決を主張しており、この死刑判決がいかに微妙な判決であったかが窺える。同裁判の首席検察官であったジョセフ・キーナンすらこの判決には不満を唱え、「どんなに重くても終身刑ではないか」と吐いた。
広田は裁判中自らの弁明を行わず、周囲の(自身を弁護するべきだとの)説得にも応じなかった。主たる戦責を一人で受け止めるためであると言われるが、これが死刑を決定づけることに繋がったとも言える。
戦前と言う微妙な時代において、庶民出身の広田は立身出世の象徴としても知られたが、組閣の際に天皇から「名門を崩すことのないように」と言われるなど、その出自故に苦労することも多かった。そのことは五摂家筆頭という名門中の名門である近衛文麿とは対象的であったが、軍部に振り回された文官出身首相という点では共通していたと言える。
なお一説には、広田の死刑には近衛の死が関係しているとも言われる。即ち、文官最大の大物でもある近衛が逮捕を前に自決したことで、なんとしても文官の代表的な戦犯を挙げたかった連合国側によって一種のスケープゴートにされたとも言える。
また、戦後5度に渡って総理大臣を務めた吉田茂は同い年であり、外務省の同期でもあった。
余談
広田弘毅は福岡県出身であったが、福岡県出身の内閣総理大臣はこの後麻生太郎が内閣総理大臣になるまで出現しなかった。
城山三郎は1974年に広田の伝記小説『落日燃ゆ』を執筆した。