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安政2年4月20日、備中庭瀬(岡山)の郷士・源左衛門の次男として生まれ、木堂と号した。

明治8年に上京し、慶応義塾に学んだが、明治13年に中退。

明治10年『郵便報知新聞』の記者として西南戦争に従軍し、文才を認められた。

明治13年、雑誌『東海経済新報』を発刊。

翌年には統計院権少書記官に任ぜられたが、これは参議大隈重信の推挽によるもので、以後彼とを共に行動することが多かった。

一方で『秋田日報』『朝野日報』に健筆を振るった。

明治23年に第1回衆議院議員に選ばれ、以後没年に至るまで17回連続当選した。

29年には進歩党を率いて薩派を助け、大隈重信、松方正義の二人に内閣を組織させた。

明治31年に自由・進歩両党が合同し憲政党が結成されると、政権は同党に帰し、犬養は総務委員として活躍した。

尾崎行雄文部大臣の舌禍辞任の後を受けて文相となったが、すぐに内閣は総辞職。

憲政党も分裂したが、犬養は憲政本党により、少数派に甘んじた。

明治43年あらたに立憲国民党が樹立されて常務委員となり、事実上の党主となった。

この頃日韓・日清問題にも関心を寄せ、金玉均孫文らの亡命を援助した。

大正元年、第一次護憲運動の先頭に立ち、尾崎行雄らと共に桂太郎内閣打倒を果す。

それ以後はもっぱら普通選挙運動に奔走。

大正11年に革新倶楽部を組織し、翌年に第二次山本権兵衛内閣の逓信大臣となったが、虎の門事件で辞職。

大正13年には第二次護憲運動を起こし、清浦奎吾内閣を倒す。

その後、護憲三派内閣の逓信大臣となり普選運動に努めた。

大正14年、革新倶楽部を政友会に合併させて政界引退を考えたが、昭和4年の田中義一の死去によって推され政友会総裁となり、昭和6年に内閣を組織、内閣総理大臣外務大臣となった。

そして昭和7年5月15日、政治革新を唱える青年将校の襲撃を受け(五・一五事件)、78年の生涯を閉じた。

彼の人となりは、清貧に安んじ、気節をもって知られたという。

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犬養毅の編集履歴2012/03/04 22:20:04 版