概要
青森県の野辺地駅~七戸駅間を結んでいた鉄道路線、およびこの路線を運営していた会社。旧型のレールバスが走る事で有名であった。
鉄道路線は平成9年5月6日付で運行を休止、平成14年8月1日に正式に廃止となっている。会社自体は鉄道路線廃止後の平成16年に『南部縦貫株式会社』と名称を変更し、タクシー会社として現在も存続している。
歴史
1953年に南部縦貫鉄道株式会社として設立、鉄道路線は敷設が遅れたものの、1962年に一部敷設が行われた、ところが、資金繰り悪化のため倒産、会社更生法(経営困難である株式会社を事業の更生を目的としてなされる更生手続などを定めた法律、担保権者や株主についても更生手続の対象となったり、更生手続き中の担保権の実行は禁止か中止されることが他の法律と異なる)の適用を受けることとなった。この状況ではまともに会社が経営できないため、副業、例えば昭和38年にはじめたタクシー業、清掃や給食調理など自治体からの受注により何とか経営してきたと思われる。
1981年に特定地方交通線に指定された大畑線を引き受ける計画を立てた。この計画では特定地方交通線に指定されていなかった大湊線も同時に引き受け、自社路線との一体運用を目指すという計画であった(この計画が成立していたならば大湊線および近隣の現状はかなり異なっていたに違いない)、そのために昭和59年にいったん更生計画を繰り上げて終了させた。ところが、青森県南部の会社が北部に進出することを脅威と見た下北バス(青森県北部に地盤を持つバス会社、後の下北交通、青森県で初の国認可のバス事業を行った会社でもある)が大畑線の引き受けを表明、この路線を得ることはなかった(なお大畑線は平成13年に設備の老朽化等により廃線)。
路線休止後は副業により事業を成り立たせ、路線廃止後は会社名を南部縦貫株式会社と改めた。
路線
南部縦貫鉄道線 20.9 km(単線、非電化) 昭和37年-平成14年
八戸から七戸を経て南下し、十和田観光電鉄線(三沢駅-十和田市駅間、当初非電化の軽便鉄道として敷設され、戦後改軌および電化された、2012年廃線)に接続、さらに南下し五戸まで延伸、南部鉄道(八戸駅-五戸駅間、十勝沖地震により鉄道を廃止し、南部バスとなった)と連絡させるという壮大な夢を持った路線であった。
ところが会社設立後資金不足により路線が敷設できなかったものの、製鉄に用いる砂鉄輸送のため東北開発(東北地方の経済振興を促進する目的で設立された国策会社、後に民営化し、三菱マテリアルと合併して消滅)の支援を受けて1962年路線を敷設(千曳-七戸間、11.9km)した(なお、期待していた砂鉄輸送は鉄鉱石の価格下落により、製鉄会社はほとんど行われなかった)。
1968年に十勝沖地震(三陸沖北部地震、北海道から東北北部に津波や地滑りが発生し50名以上が死亡し建物の多数が破壊され、北海道への通信が途絶した)により路盤が崩壊したため運休した。8月にはそれ以前に東北本線(現在この区間は青い森鉄道に譲渡)複線化のため不要となった千曳-野辺地間の旧路線を借り受け、野辺地までの延伸を行い、復旧。
ところが、1997年JR発足の際借り受けた路線が日本国有鉄道清算事業団(固定資産売却益による長期債務償還や余剰人員の再就職促進などを行うことを目的として設立された特殊法人、実際には失敗した事業だったといわれる)にわたり、買い取るよう言われたため路線の運営ができなくなり、廃止も考慮したものの、東北新幹線との接続計画があった(七戸十和田駅は同線営農大学校前駅から徒歩約5分のところに立地しており、ここに接続する予定であった)ため、全線休止という形となった。
この借り受けていた路線は後に地元自治体が有償で取得したものの、荒廃著しく再開不可能として廃止を決断。2002年に正式に廃止。青森への新幹線延伸が先送りされる内に南部縦貫鉄道線側が力尽きてしまう結果となった(新幹線の開通により路線廃止の引き金となった十和田観光電鉄とは逆のパターンである)。
↓位置関係
現状
七戸駅跡地にて車両(キハ101・102・104)の動態保存がされている。
鉄道むすめにて
青森鉄道むすめには当路線で働いている設定の七戸ちびきが設定されている。
関連イラスト
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外部リンク
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