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島田魁の編集履歴2012/04/17 04:34:04 版
編集者:Mya
編集内容:子孫について追記。

島田魁は新撰組で活躍した隊士。

  • 生:文政十一年一月十五日(西暦1828年2月29日)
  • 没:明治三十三年3月20日(西暦1900年同日)

 美濃国岐阜県)生まれ。庄屋である近藤伊右衛門の次男として生まれ、各家に養子として出される中で剣術に目覚めて後、名古屋城下の剣術試合で優勝した事が大垣藩藩士、島田才(嶋田とも)の目に止まりそれが切っ掛けで島田家の養子となる。

 その後、江戸に出て坪内主馬が道場主を務める心形刀流坪内道場に通い、同じく坪内道場にて師範代を務めていた永倉新八と邂逅を果たす。従って永倉新八とは剣術を通して師範の関係であり、その事から永倉の伝手で文久三年(西暦1863年)、京都にて新撰組に入隊したと見られる。

 新撰組内ではその巨体を活かして相撲を取ることに長けていたことから「力さん」という愛称で親しまれた。当初は新撰組にて調役を勤め、また伊東甲子太郎北辰一刀流の面々が入隊して組織構造が一変されてからは、永倉新八が隊長を務める二番隊の伍長となる。

 新撰組内での活躍としては、池田屋事件の発端となる長州藩士の古高俊太郎を捕縛。伊東甲子太郎を暗殺した油小路事件では服部武雄と戦い、慶応三年(西暦1867年)年末、局長の近藤勇が鉄砲にて狙撃される中、これを良く守り機転を利かして近藤が乗る馬を先に走らせる等が目を引く。また調役として隊規を厳しく言い渡す土方歳三の傍らでその汚れ役も引き受けていた模様。

 慶応四年(西暦1868年)、鳥羽・伏見の戦い緒戦で大砲の守備を担う敵陣に、永倉と共に抜刀隊の一人として切り込んだ際、火攻めにあって武装の重さに油塀を登れずにいる永倉新八をひょいと抱え上げた怪力の持ち主でもあり、身の丈六尺(180cm)を越える巨躯を持ちながら酒は嗜まずに甘い物に目が無く、他の隊士は誰一人として手を付けられないような、膨大な量の砂糖を入れた「島田汁粉」を一人で作っては平らげたりと、戦闘以外での逸話にも事欠かない人物である。

 江戸にて近藤勇との確執から永倉新八新撰組を脱退するが、島田は新撰組に籍を残した。戊辰戦争では新撰組靖兵隊も共に会津で幕府軍の傘下に置かれたので戦線を共にするが、永倉米沢に招聘されて戦後、明治二十年に再会するまで音信不通となる。島田はといえば戊辰戦争函館五稜郭五稜郭戦争まで戦い抜き、明治二年(西暦1869年)5月、新撰組が降伏するまで抗戦した剛の人である。その咎で同年11月まで謹慎処分に処された。

 謹慎が明けると京都で剣術道場や雑貨屋、レモネード屋を開くが余り流行らなかったようで困窮したという。明治政府樹立後にはかつての上司である榎本武揚から招聘の連絡を受けたが、「呼び出すならば呼び出した方から会いに来るのが道理というものだろう」と突っぱねているのは新撰組隊員としての意地を通した為か、貧困にも曲がらず筋を通した。明治十九年(西暦1886年)にはかつて新撰組の駐屯所があった西本願寺の夜間警備員に雇用され、薄給(月給九円。当時の巡査の初任給であったという)の中に赤貧を貫いて明治三十三年(西暦1900年)、持病の喘息が悪化したのを伴って退職(西本願寺の好意で休職扱いとされた)。その一ヶ月後の3月20日、自発的な巡回中に喘息の発作を起こし、実直な性格を物語るかのようにそのまま倒れそのまま逝去する。享年七十三(満七十二歳)。葬儀には函館から遙々、永倉も参列した。

 妻は京都にて見初めたおさと。身の丈六尺(約180cm)、目方四十五貫(約169kg)の島田に対しておさとは身長が四尺(約120cm)しか無かった為、隊士からも冷やかされてはその隊士を締め上げるという日常が繰り広げられていたという。五男一女に恵まれたが長男、長女、三男を亡くすという不幸に遭う。そういった因果に戦後の島田は散った新撰組の隊士や自らが斬った時の敵に対しても念仏を欠かさず、深く浄土真宗に帰依したという。また文章にも明るかったらしく永倉新八新撰組顛末記と等しくして、島田が記した島田魁日記は今日に新撰組の有り様をまざまざと伝える貴重な資料として現代に読み継がれている。

薄桜鬼

CV:大羽武士

新選組を影から支える縁の下の力持ち的存在である。甘いものが大好き。

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編集内容:子孫について追記。
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