概要
1936年に満鉄調査部員の息子として大州市(現在の大連)に生まれ、終戦後に帰国し福岡県で育つ。
本名は名前の漢字が同じで「ひらく」と読むが、読み難いせいか「たく」を名乗っていた。
早稲田大学商学部卒業、ブリジストン勤務や県会議員を経由して中曽根康弘の引きで1972年に国政転身。
その後は中曽根の子分格として、彼の内閣の元で官房副長官を務めたりした。
外交・安全保障は票にならないという定説の中、数少ない防衛族議員として知られており、防衛庁長官を務めたこともある。
当選同期の小泉純一郎、加藤紘一とともに「YKK」を名乗ったこともある。
加藤の乱~落選・引退
2000年の「加藤の乱」で盟友の加藤についたため一時期ピンチに陥るも、自民党主流派による山崎派への猛烈な切り崩し工作に遭ったにも関わらず、山崎派内の議員で山崎を裏切る者は殆どおらず、かつて鉄の団結を誇った田中派を彷彿とさせる結束に党内から感嘆の声が上がった。
このことから、多くの脱落者を出して派閥分裂を招いた加藤と比較し、山崎の人望や求心力は党内からも高く評価され、翌年以降の復権に繋がり、小泉政権下で幹事長となり返り咲く。
2002年に週刊文春に掲載された女性スキャンダル記事で暴露された彼のあまりの変態ぶりからネットで「エロ拓」の渾名を付けられることになり地元でも評判を落とし、2003年に一時落選していたが2005年に当選して復帰。
一時は副総裁にまで上り詰め、首相候補の1人と目されることになるが徐々に小泉とも郵政解散の頃から溝が出来始める。また相前後して中国、韓国に対するスタンスの違いから安倍晋三との不仲が顕在化するようになり、これが後の彼の行動にも影響する事になる。
福田内閣、麻生内閣では政調会長を務めたが、2009年の自民党下野の際に自身も落選して浪人、2010年に比例区の定年制度により政界を引退。自身の派閥は石原伸晃に譲った。
引退後
2021年10月に行われた第49回衆議院議員総選挙には出馬しなかったが、衝撃の行動に出て世間を騒がせた。
小選挙区・大阪10区を訪れて自民党の候補を応援するかと思いきや、何と立憲民主党の辻元清美の応援をし「小選挙区は辻元清美、比例区は自民党」と熱弁を奮った。
辻元の応援に来た理由は「辻元を応援したのは友情である。立民の応援に行ったわけではなく、辻元氏個人の応援に行った。」としている。
当然自民党大阪府連は怒り、本部に除名処分を申請したが「党員資格1年停止」という処分に留まった。
政策
外交では北朝鮮との融和姿勢をとり、朝鮮半島の非核化・拉致問題解決による日朝国交正常化を、自身の最重要政治課題の一つとしている。
憲法9条改正を長年にわたり主張し続けており、自身の著書『憲法改正―道義国家をめざして』の中で、条件付きの陸・海・空軍の保持を唱えている。
また、安倍に対しては改憲問題や安全保障法案などを巡って、激しい非難を度々表明しており亀井静香・武村正義・藤井裕久らと共に安倍批判の会見を行ったこともある。
人権擁護法案の推進派でもあった。
人物
自身の地盤である福岡(選挙区は2区)では、民主党の松本龍と共存の姿勢をとっていた。これは松本が駆け出しであった当初、山崎の事務所の下働きに入り運転手を務めていたりした縁もある。麻生太郎とは表面的には対安倍程の不仲ではなかったものの、山崎の引退後の2012年衆議院選挙では麻生が松本家と対立姿勢を明確に打ち出し、麻生が自身の子分である井上貴博を投入して松本から議席を奪い取り、2014年の衆議院選挙でも井上の対抗馬として古賀誠の子分新開裕司を支援するなど対立姿勢が強まっている。
尊敬する人物は、東京裁判においてA級戦犯として死刑になった広田弘毅元首相。山崎の母校・修猷館高校の大先輩である。