概要
ジョン・ウェイン・ゲイシー(John Wayne Gacy)
アメリカの重犯罪者。有名な大量殺戮の一人にして、ピエロのイメージを一変させた殺人者として知られる。という観念を作るきっかけになった代名詞的存在。ジョン・ウェインとは西部劇の超名優の名前で、それにあやかって名付けられた。しかし彼の凶行があまりに凄惨なためか、どこで紹介されるにせよ、名優の名を汚さぬためなのか、ジョン・ウェインの部分は省略されることが多い。
ポーランドからの移民の血を継ぐ一家に生まれる。心臓に疾患のある病弱な子供時代に、虐待気質のある厳格な父親に虐待・奴隷労働の責め苦を受けていた経緯から、非常に歪んだ権勢欲のある人間に育つ。
その後、職を転々をする日々を経て、商才を身に付け、建築業の会社を立ち上げ社長になるまでに上り詰める。自身の過去の経歴から恵まれない子供への慈善活動を熱心に行い、その功績により民主党へ入党して地元の名士となり、アメリカの国政・地域の政治家などの権力層などにも人脈を持ちアメリカ大統領の野心まで持つようになった。
しかし、根本的に性格の破滅的歪みが改善されたわけではなく、とうとう父親の死や妻との離婚を経て、ある日一夜を過ごした青年を勘違いで殺してしまったことでで完全に一線を越えてしまった。
彼の殺人的好奇心は細身の美少年・美青年に向けられており、目をつけた青少年を会社のバイトという目的で面接を行いに来させたあと、隙をついて縛り上げて水攻めなどの拷問同然のレイプの果てに、細い首を縄で少しずつ締め上げて殺しまくった。そして殺した少年たち33名を自宅の庭や家の土台などに埋めるなど異常な行為を繰り返した。自身のホモセクシュアリティを隠すために殺害に及んだとされる。
しかも凶行中であってもゲイシーは通常の生活を続け、子供たちの慈善活動なども積極的におこなった。この時の慈善活動において、ジョンはよくピエロ「道化師ポゴ」に扮して面白がらせていた。そのため、後に『殺人ピエロ(英:Killer Clown)』と称せられるようになった。
道化師に扮したのは獲物の物色も兼ねていたのだが、それと同時に道化師でいる間は最も心が安らいでいたという。
1978年、青少年連続行方不明事件の関係者として、警察による聞き込みを受けていた過程で、部屋に漂う鼻につくほどの酷い臭いを不審に思った警官によって、失踪した青少年の持ち物とされるアクセサリーや身分証明書などが家の一角から発見されてしまう。その時は地元の有力な民主党員であることを盾に追い返されてしまったものの、不審に思った警察は事件の重要参考人としてマークを開始し、ゲイシーは別件で逮捕されてしまう。
家宅捜索に入った家では、遺体の腐敗が進んでいたことから異臭が凄まじく、検察は証拠物件を集める目的で家の土台ごと持って行ったため、多量の有毒ガスや有害な細菌が検出された。これらは最悪生命にすら関わるほどのもので、現場の捜査員たちに作業用に使い捨てのジャンプスーツを支給し、傷の自己申告を徹底させ、傷を申告した捜査官を現場から外し、全員に髭を剃ることを禁止した。警察署の死体保管所と捜査現場は文字通りの地獄絵図となった。
ジョンは逮捕された後も、なんと自分自身が弁護士となり、冤罪を主張して再審請求を求めて裁判を嫌というほど延長させたり、刑務所の中で一緒の哲学者や芸術家のように振る舞ったり(TVのインタビューなどにも進んで出ていたという)するなど、自身の犯した罪については微塵も思いをはせることはなく、それどころか『どれほど少年の殺害が面白いか』という自説を雄弁に垂れまくっていた(当然世論はそれに容赦することはなく、彼の死刑執行を求める声が殆どであったが)。そうした異常な胆力を持つ犯罪者だったため、精神学者や各分野の研究者の興味を惹き、様々な論文が書かれた。
ところが、一人の少年との出会いが彼の運命を決定づけた。その少年ジェイソン・モスは、成績優秀だった一方で、予てより凶悪犯罪を犯した罪人の心理・精神鑑定に強い関心を抱いており、またFBIの精神鑑定士を夢見ていたことから、当時世間を騒がせた数々の凶悪犯(実際にジェイソンが送っていたのは、チャールズ・マンソン、ジェフリー・ダーマーなど、いずれも悪名高い者ばかりであった)と文通するという趣味を持っていた。その過程で、ジョンのことを知ったジェイソンは、ジョンとの文通を夢見て、早速手紙を送る。その後、紆余曲折を経て、二人は互いに手紙を送り、電話で話をするほどの仲に発展していったが、実はジョンからの手紙にあった内容はいずれも、手紙をよこしてきた人間が自分が殺すにふさわしいかどうかを試す手段であった。勿論、ジェイソンはそのことに気付くはずもなく、まるで自分が殺人鬼を操っているかのような心地に酔いしれていた。しかし、事実は全くその逆であった。飽くまでジョンにとっては、ジェイソンは新たな犠牲者にふさわしいカモに過ぎなかったのである。
ジョンは、言葉巧みにジェイソンを自らが収監されている刑務所へ呼び出し、更には、模範囚だった自分の評判に付け込み、仕切り板も看守もなしに二人きりで対面するという、本来であれば刑務所内でのルールに反している方式での面会を取り付けさせた(その後、看守がジョンより密かに賄賂を受け取っていたことが発覚している)。そして監視人がいなくなったところで、ジョンはジェイソンを防犯カメラの映らない空間に誘い込み、凌辱しようとしたが、偶然通りかかった看守に間一髪で取り押さえられ、事件は未遂に終わった。
それまでのジョンは「自分は多重人格である」と主張したり、冤罪を訴えてはのらりくらりと刑罰を引き延ばしていたが、この一件によって殺意や責任能力が認められる決定打になり、これまでの再審請求も全て取り消された。
1994年、ジョンの毒殺刑(死刑)が遂に執行された。通常ならば5分ですむ処置が、何らかの手違いで30分以上かかったため、ジョンは壮絶に苦しみながら死んでいった。享年52歳。
この件について担当した検事は
「被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛なんて大したことないね」
とコメントしたという。
しかし最後まで冤罪を主張し続け、死に際まで自分の犯した罪を認めることはしなかったという。
これらの常軌を逸した猟奇的犯行、あまりにも存在・性格が絵に書いたような悪魔的犯罪者だったので、映画や小説やキャラクターなどのモデルになった。
余談
- 上記の出来事が人生最大の黒歴史となったジェイソンは、事件後は囚人との文通を一切やめた上に、FBIに入って犯罪心理学者になる夢をも捨て去り、大学を優秀な成績で卒業した後弁護士になった。1999年にジョンに襲われた出来事についての回想録『「連続殺人犯」の心理分析』を出版したが、その出来事によるトラウマに苛まされ続け、とうとう31歳の時に拳銃自殺を遂げてしまった。
- 執行直前までは先述にもあるように、独房で絵を描くことを趣味としており、手紙を送った者に気に入った人物があれば、自作の絵を送付することがあったという。現在、彼が描いた絵画は物好きによって高い値段で取引されており、あのジョニー・デップも彼が生前に描いた絵を高値で買い取っている。
- かつては作品によっては200ドル程度で売られたこともあったようだ。しかし、作者の悪名が絵への需要を高めることになった。が、このようなことは許されないという人は存在する。ゲイシー処刑後、競売に出される形でその絵は世に出ることになるが、トラックパーツ会社のオーナーであるジョー・ロス(Joe Roth)とウォリー・クネーベル(Wally Knoebel)はオークションに出品されたゲイシーの絵を約30点競り落とし、焼却した。9人の犠牲者の家族を含む300人がそれに立ち会った。処刑から間もない、1994年6月のことである(リンク①②)。
- 「ゲイシーの絵を焼却するための団体」は存在していない。1994年6月の事例以降、ゲイシーの絵の焼却の事例は少なくともニュースにはなっていない。
- 2011年のラスベガスでの競売では主宰者側から利益をNPO「犯罪犠牲者のためのナショナル・センター(the National Center for Victims of Crime)」に寄付すると打診されたが、NPO側は道徳的・倫理的な理由から拒絶し、シリアルキラーの犯罪に関するものから商業的利益をあげることを戒めた(リンク)。
関連タグ
ペニーワイズ(ジョンをモチーフとする架空の殺人ピエロ)