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概要

ジョン・ウェイン・ゲイシー・ジュニア(John Wayne Gacy Jr)

1942年3月17日 - 1994年5月10日

アメリカの重犯罪者。有名な大量殺戮者の一人にして、ピエロのイメージを一変させた殺人者として知られる。テッド・バンディと並び、シリアルキラーという観念を作るきっかけになった代名詞的存在。

前半生

ポーランドからの移民の血を継ぐ一家に生まれる。父のジョン・スタンリー・ゲイシー(以下スタンリー)は待望の男子ということで西部劇の大スターであるジョン・ウェインにあやかってジョン・ウェイン・ゲイシーと名付けた。一般メディアでは、文字数制限の都合やミドルネームは殆ど用いない慣習から、単にジョン・ゲイシーと表記することが多い(報道でジョー・バイデンのミドルネームである「ロビネット」が殆ど表記されない事情と同じ)。また、事件発覚当時ジョン・ウェインはまだ存命中であり、彼と名が被らないように配慮する必要があった可能性も指摘されている。

しかし、スタンリーは息子の心臓に疾患があることを知ると失望し、愛情を注がなくなった。元々の性格が厳格かつ暴力的で、加えて手術不能な場所に脳腫瘍を持っていたスタンリーは一度癇癪を起こすと気が済むまで息子に対し精神的・肉体的虐待を加え続けたため、ゲイシーは非常に歪んだ権勢欲のある人間に育った。

こうした家庭環境にもかかわらず、ゲイシーは息子をかばいながらも夫の暴力に怯えるばかりで無力の母よりも、強く男らしく見えたスタンリーを尊敬の対象としていた。ゲイシーは幼少の頃から同性愛ないしは両性愛の傾向があったが、尊敬する父は「オカマ」を罵倒する際の決まり文句にするなどそれらを異常なものと教え込み、ゲイシーがガールフレンドとのセックスでトラウマによりしくじったことについて激しくなじった。この結果、ゲイシーは潜在的に同性に惹かれながらも同性愛者を軽蔑する、歪んだ志向を持つに至る(こうした親による教育でゲイシーと同じ傾向を持つ同性愛者は少なくない)。

親元を離れた後、ゲイシーは持ち前の勤勉な性格を武器に仕事で成功を収める。結婚もし、スタンリーも息子を認め始めて関係が良好になるなど順調に思えたが、少年との性行為が発覚してゲイシーは反自然性交の容疑で逮捕された。この件で離婚と失職してしまっただけではなく、息子の最悪な形での転落を見て失意に暮れたスタンリーも肝硬変で急死してしまう。

しかし、それでもゲイシーは刑務所内で模範囚として過ごし、様々な活動で業績を上げた。結果その実績と態度が認められ本来懲役10年であるところを16ヶ月で出所することに成功する。その後建築業の会社を立ち上げ、社長になるまでに上り詰める。自身の過去の経歴から恵まれない子供への慈善活動を熱心に行い、その功績により民主党へ入党して地元の名士となり、アメリカの国政・地域の政治家などの権力層などにも人脈を持ち政界進出の野心まで持つようになった。

殺人ピエロ

しかし、彼の根本的な問題は社会的成功では改善されなかった。出所から間もなく、ゲイシーはパーティーで知り合った少年を漁るようになっていたのだが、1972年に一夜を過ごしたティモシー・マッコイという少年を勘違いで殺してしまったことで完全に一線を越えてしまった。

1975年のある日、妻が10代の少年をガレージに連れ込むゲイシーを発見し、ゲイポルノの写真だけではなく少年の財布や身分証まで持っていたことをきっかけに口論となり、夫婦仲の亀裂が決定的となってゲイシーは1976年に2度目の離婚をした。それまでの被害者は先述のマッコイと、賃金未払いでトラブルがあった従業員のジョン・ブトコヴィッチの2人だけだったが、家に誰もいなくなって以降は殺人衝動は暴走し始め、毎月のように殺人を犯すようになる。

彼の標的は細身でどこかあどけなさが残る白人の美少年美青年だった。これはゲイシーの好みであるだけではなく、彼が白人の多い地域に住んでいたことも関係している(当時のシカゴの白人は全体の6割弱に過ぎなかったが、それぞれの人種が固まって住む傾向にあった)。

ゲイシーは目をつけた青少年を家に連れ込み、隙をついて縛り上げて水責めなどの拷問同然のレイプの果てに、首を縄で少しずつ締め上げて殺すという手法を好んでとった。多くの場合被害者は男娼で、数人は自分の会社で働いていたアルバイトだった。未経験で若くハンサムな青少年ばかりを雇うことを訝しむ友人もいたが、再婚した妻は事前にゲイシーからバイセクシャルであることを打ち明けられており、ガレージにしばしば少年を連れ込んでいたことから理由を知っていたものの、さすがに殺人まで犯しているとは考えていなかった。

遺体は自宅の床下などに埋め、腐敗を進行させるために石灰や塩酸をかけて処理をした。最終的に犠牲者は33人に上り、2023年現在も5名の身元は分かっていない。当時のアメリカ社会は家庭崩壊の激増と共に家出する少年少女も非常に多く、警察が行方不明の若者の捜査に積極的ではなかったこと、そして家族が保守的な場合、身内が男性に凌辱されたことを公示したくないという意識が働いたためだと見做されている。ゲイシーの殺人同機も単純なサディズムだけではなく、幼少期のトラウマやセックスの相手に告発されて一度全てを失った経験、そして同性愛に否定的だったアメリカ社会での政界進出も考えていた以上関係を持った人間を野放しにしておけないという理由が働いていたとも言われている。

凶行中であってもゲイシーは通常の生活を続け、地域の民主党員のリーダーとして遺体が埋まっている自宅にメンバーを招いてバーベキューパーティーを開き、子供たちの慈善活動なども積極的におこなった。この時の慈善活動において、ゲイシーはよくピエロ「道化師ポゴ」に扮して面白がらせており、これが後に『殺人ピエロ:Killer Clown)』と称せられるようになった。

道化師に扮したのは獲物の物色も兼ねていたのだが、それと同時に道化師でいる間は最も心が安らいでいたという。

逮捕

1978年、ゲイシーはロバート・ピーストという製薬会社でアルバイトをしていた少年を、製薬会社から得ていた2倍の時給を餌に家に招いて殺害した。しかし、ピーストは行方不明になる直前「建設業の経営者が会いたがっている」と母親に周囲に発言しており、しかもこの時は母親の誕生日パーティーを行方不明当日に控えていた。つまり、突然家出をするような理由がどこにもなかったのであり、夜11時になっても戻らないピーストの心配をした家族の通報を受け、基本的に家出少年の捜査をしたがらない警察も捜査に乗り出した。「建設業の経営者」は、すぐにゲイシーであることがわかったため、ゲイシーは行方不明事件の重要参考人として捜査線に急浮上することになった。ピーストは33人目、つまり最後の犠牲者だった。

警察はゲイシーに聞き込みを行った過程で部屋に漂う鼻につくほどの酷い臭いが殺人現場でよく嗅ぐ死臭に極めて近いことに気づき、失踪した青少年の持ち物とされるアクセサリーや身分証明書、更には使用の痕跡が見られた性玩具などが家の一角から発見した。その時は地元の有力な民主党員であることを盾に追い返されてしまったものの、不審に思った警察は性犯罪の前科などの経歴を洗いざらい調べ上げた上でマークを開始し、大麻不法所持による別件逮捕で捜査令状を手に入れた。

家宅捜索に入った家は遺体の腐敗が進んでいたことから異臭が凄まじく、検察は証拠物件を集める目的で家の土台ごと持って行ったため、多量の有毒ガスや有害な細菌が検出された。これらは最悪生命にすら関わるほどのもので、死臭がついた服は2度と使い物にならなかった。捜査の指揮者は現場の捜査員たちに作業用に使い捨てのジャンプスーツを支給し、新たにできた傷の自己申告を徹底させ、傷を申告した捜査官を現場から外し、全員に髭を剃ることを禁止した。警察署の死体保管所と捜査現場は文字通りの地獄絵図となった。

ゲイシーは刑が確定した後も冤罪を主張して再審請求を求めて裁判を延長させたり、刑務所の中で一種の哲学者や芸術家のように振る舞ったりTVのインタビューなどにも進んで応じるなど、自身の犯した罪については微塵も反省するそぶりを見せず、それどころか『どれほど少年の殺害が面白いか』という自説を雄弁に語り、当然世論はそれに容赦することはなく彼の死刑執行を求めた。ゲイシーの言動は精神学者や各分野の研究者の興味を惹き、様々な論文が書かれた。

最後の転機と処刑

ところが、一人の少年との出会いが彼の運命を決定づけた。その少年ジェイソン・モスは、成績優秀だった一方で、かねてより凶悪犯罪を犯した罪人の心理・精神鑑定に強い関心を抱いており、またFBIの精神鑑定士を夢見ていたことから、当時世間を騒がせた数々の凶悪犯(実際にモスが送っていたのは、チャールズ・マンソンジェフリー・ダーマーなど、いずれも悪名高い者ばかりであった)と文通するという趣味を持っていた。その過程で、ゲイシーのことを知ったモスは、ゲイシーとの文通を夢見て、早速手紙を送る。その後、紆余曲折を経て、二人は互いに手紙を送り、電話で話をするほどの仲に発展していったが、実はゲイシーからの手紙の内容はいずれも、手紙をよこしてきた人間が自分が殺すにふさわしいかどうかを試す手段であった。勿論、モスはそのことに気付くはずもなく、まるで自分が殺人鬼を操っているかのような心地に酔いしれていた。しかし、事実は全くその逆であった。飽くまでゲイシーにとっては、モスは新たな犠牲者にふさわしいカモに過ぎなかったのである。

ゲイシーは、言葉巧みにモスを自らが収監されている刑務所へ呼び出し、更には模範囚だった自分の評判を利用し、仕切り板も看守もなしに二人きりで対面するという、本来であれば刑務所内でのルールに反している方式での面会を取り付けさせた(その後、看守がゲイシーより密かに賄賂を受け取っていたことが発覚している)。そして監視人がいなくなったところで、ゲイシーはモスを防犯カメラの映らない空間に誘い込み、彼を襲い凌辱しようとしたが、偶然通りかかった看守に間一髪で取り押さえられ、事件は未遂に終わった。

それまでのゲイシーは「自分は多重人格である」と主張したり、冤罪を訴えてはのらりくらりと刑罰を引き延ばしていたが、この一件は殺意や責任能力が認められる決定打になり、これまでの再審請求も全て取り消された。

1994年、ゲイシーの毒殺刑(死刑)が遂に執行された。通常ならば5分ですむ処置が、何らかの手違いで30分以上かかったため、ゲイシーは壮絶に苦しみながら死んでいった。

この件について担当した検事は「被害者が受けた苦痛に比べれば、ゲイシーの苦痛なんて大したことないね」とコメントしたという。

処刑の間際でもゲイシーは反省をしたそぶりを見せず、死刑執行を控えた面会では「俺は33人殺したが、奴らは俺を1回しか殺せない。また俺の勝ちだ」と嘯いていた。

これらの常軌を逸した猟奇的犯行、あまりにも存在・性格が絵に描いたような悪魔的犯罪者だったので、映画や小説やキャラクターなどのモデルになった。

余談

  • 上記の出来事が人生最大の黒歴史となったモスは、事件後は囚人との文通を一切やめた上に、FBIに入って犯罪心理学者になる夢をも捨て去り、大学を優秀な成績で卒業した後弁護士になった。1999年にゲイシーに襲われた出来事についての回想録『「連続殺人犯」の心理分析』を出版したが、その出来事によるトラウマに苛まされ続け、31歳の時に拳銃自殺を遂げてしまった。
  • 執行直前までは先述にもあるように、独房で絵を描くことを趣味としており、手紙を送った者に気に入った人物があれば、自作の絵を送付することがあったという。現在、彼が描いた絵画は好事家によって高い値段で取引されており、あのジョニー・デップも彼が生前に描いた絵を高値で買い取っている。デップは単なる興味本位だけではなく、自らのピエロ恐怖症を克服するための荒療治目的で購入したのだが、作品が帯びる異様な雰囲気にまいってしまい手放したという。
  • かつては作品によっては200ドル程度で売られたこともあったようだ。しかし、作者の悪名が絵への需要を高めることになった。とはいえ、このようなことは許されないという人は存在する。ゲイシー処刑後、競売に出される形でその絵は世に出ることになるが、トラックパーツ会社のオーナーであるジョー・ロス(Joe Roth)とウォリー・クネーベル(Wally Knoebel)はオークションに出品されたゲイシーの絵を約30点競り落とし、焼却した。9人の犠牲者の家族を含む300人がそれに立ち会った。処刑から間もない1994年6月のことである(リンク①)。
  • 「ゲイシーの絵を焼却するための団体」は存在していない。1994年6月の事例以降、ゲイシーの絵の焼却の事例は少なくともニュースにはなっていない。
  • 2011年のラスベガスでの競売では主宰者側から利益をNPO「犯罪犠牲者のためのナショナル・センター(the National Center for Victims of Crime)」に寄付すると打診されたが、NPO側は道徳的・倫理的な理由から拒絶し、シリアルキラーの犯罪に関するものから商業的利益をあげることを戒めた(リンク)。

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