概要
1949年8月18日生まれ、2010年10月29日没。代表作としては『宇宙戦士バルディオス』、『魔法のプリンセスミンキーモモ』シリーズ、『戦国魔神ゴーショーグン』、アニメ版『ポケットモンスター』などが挙げられる。
前述した作風の他、次回予告がユニークなことでも知られており、アニポケでのロケット団の名乗り口上「なんだかんだと聞かれたら〜」という名フレーズの生みの親も首藤であった。
一方で、『ミンキーモモ』に端を発した「美少女(ロリコン)ブーム」、およびそこから続くムーブメントに対しては、モモやアニポケなどで共働の機会が多かった湯山邦彦ともども、あからさまな不快感を表明していた事でも知られている。また2010年前後に展開された同作の「30周年プロジェクト」にも、他のアニメ版主要スタッフと共に不参加であった。
このように、全体的な傾向として「子ども向け作品から子どもが卒業することなく、そのままノスタルジーと共にコンテンツを支援し続けていく」という事や、これに乗じて商売として成立させていく事に対しては「時勢的に『仕方がない』こと」と認めながらも、非常に懐疑的あるいは時に批判的なスタンスを持っていた。
経歴
出身地は福岡県だが、国家公務員であった父の仕事の都合上、幼少時には東京の渋谷・札幌市・奈良県などを転々しており、これが脚本家としての自身の作風の基礎を形作ったとされる。特に小学5年次より居住していた渋谷での経験は、後年自身が脚本を手がけた『アイドル天使ようこそようこ』においても存分に活かされることとなった。
大学受験に失敗した後、シナリオ研究所を経て1969年にテレビ時代劇『大江戸捜査網』で脚本家デビュー。その後納得の行かない脚本の直しへの嫌気などから、一旦はシナリオ執筆から足を洗い、セールスマンとして勤める傍ら漫画原作の手伝いやドラマのプロット作成などを続けていた。やがてヨーロッパ放浪より戻った1976年に、知人の宮内婦貴子の伝手によりテレビアニメ『まんが世界昔ばなし』にて、脚本家としての活動を再開する。
その後も、『まんが世界昔ばなし』の制作会社であったダックスインターナショナルの手がけた作品に携わる一方、1980年代にはアニメ演出家の湯山邦彦と組んで、前出の『ミンキーモモ』や『ゴーショーグン』を世に送り出し、また同時期には『ゴーショーグン』のノベライズや、オリジナル作品である『永遠のフィレーナ』の執筆など、小説家としての活動も見られた。
1990年代には再び湯山とタッグを組み、『ポケットモンスター』アニメ版の立ち上げにも参加、脚本・シリーズ構成として、無印編が終盤に差し掛かる2002年まで携わった。
2002年頃、脚本が書けないことを苦に当時自宅があった小田原市からかなり歩いたところにある海で自殺未遂を引き起こした。海辺にいたホームレスに発見されて一命を取り留めたが、警察の事情聴取の際は筋道の通った受け答えができないほど心身が耗弱していた。何とか警察に自宅の電話番号を伝えられたため小田原市内の精神病棟で入院治療を受けて最悪の事態は避けられたが、その過程でアニメ『ポケットモンスター』の脚本からは撤退している。
晩年はそれまで居住していた小田原市から再び渋谷に居を移し、アニメ雑誌『アニメスタイル』のウェブサイトへのコラム寄稿などの他、脚本家としても『獣装機攻ダンクーガノヴァ』に参加するなど、往時ほど精力的ではなかったものの活動を継続していた。
一方で1990年代より、心身衰弱などで度々体調を崩しがちな状態が続いており、前出の『ようこそようこ』においてはこれを逆手に取って、スポンサーからの圧力をかわす形でアニメ制作を続行したという逸話も残されている。そして2010年10月28日、訪問先のJR奈良駅でくも膜下出血を発症し、救急搬送された後に緊急手術を受けたものの回復せず、翌29日未明に死去。享年61歳。
生前、自身が携わった作品の脚本や関連する資料が、かつての居住地であった小田原の市立図書館に寄贈されており、その一部は現在でも小田原文学館にて常設展示されている。
また没後の2017年に制作されたアニポケ劇場版『キミにきめた!』に、初期テレビシリーズからの引用が多かった事から「一部脚本」としてクレジットされている他、2019年にはかつて自身が手掛けた劇場版1作目のリブート版『ミュウツーの逆襲EVOLUTION』が制作されている。