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ポケモンの没プロット

まぼろしのえいがとさいしゅうかい

ポケモンの没プロットとは、脚本家の首藤剛志氏が手掛けた、没になったポケットモンスター(無印)最終回と劇場版ポケットモンスター第3作の没プロットのことである。
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はじめに編集

今日、誕生からおよそ26年が過ぎた今もなお、日本のみならず世界中から愛されているポケットモンスター


このメディアミックスアニメ版『ポケットモンスター』最初の『ポケットモンスターシリーズ構成を務めた首藤剛志氏は、サトシピカチュウロケット団をはじめとするキャラクターや彼らの特徴的な決め台詞を生み出した

そして伝説の1話「ポケモン!きみにきめた!」やキッズアニメに留まらない内容の映画第1作『ミュウツーの逆襲』を執筆するなど、20年以上続くシリーズ展開に大きな影響を残した。


しかし実は首藤氏によって初期に構想が練られていたものの、放送の長期化・世界観への影響など諸般の事情で没になり、現在では実現不可能な最終回のプロットが存在した。

このプロットは、テレビ局におけるアニメの地位が特に低かった時代、過去に担当した作品『アイドル天使ようこそようこ』などが理不尽な打ち切りにあった経験を持つ首藤氏が、もしポケモンというゲームが人気が出ずに終わり、販促ホビアニらしく突然アニメも終わったり打ち切りになったりしてもいいように最終回を構想していたためである(もしアニメが長期化したとしても1年半〜4年くらいだろうと考え、運良く打ち切りにならずゲームとアニメ人気が出たとしてもアニメ「ポケモン2」として仕切り直せば良いとも当初考えていた)。


とても衝撃的な内容であるが、その中には製作者が子供たちへ向けた特別なメッセージが込められている。

このプロットを読んだ後、改めてポケモンという作品の奥深さが感じられるかもしれない。


アニメ版ポケットモンスター(無印)最終回(仮)編集

当時ポケットモンスターシリーズ構成担当であった首藤剛志氏が、WEBアニメスタイルのコラムで存在を公表し、ファンの間で話題を集めた。

テーマは『ポケモンと人間は本当に共存しえるか』。


アニメ脚本のために世界観や設定を煮詰めるにあたり、首藤氏は「ポケモンとはなんなのか」を考えていた。

というのも、ゲームでは主題である151匹ゲット/図鑑登録やバトルだが、ゲームと違いアニメでは人間の主人公が映り続けることに加え「プレーヤーとゲームのこの関係をそのままアニメに持ち込むと、主人公がなんの苦労もせずにポケモンを捕まえて、そのまま自分の代理でポケモンを戦わせる代理戦争のように見えてしまう」ため、ゲームをそのままアニメ化するには難しく、なにかテーマを考える必要があったのである。

なお、こうしたゲームから離れてアニメ独自の描き方を考えるのは首藤氏の暴走というわけではなく、特にポケモンと同じように人間の主人公が相棒を使役して戦わせるゲームのアニメ化にあたって大きな変更を加えるのはよくあることであり、デジモンアニメシリーズロックマンエグゼシリーズ等でもアニメオリジナル要素も有名。指揮役として指示するだけの人間主人公の棒立ちをアニメ視聴者が眺めるのを避けるためでもあった。


そして実際にゲームをプレイしてみた首藤氏はポケモンについて「手間はかかるが、プレーヤーに逆らったり、実際に死んでしまうこともない。失敗してもリセットが可能である。そして、事と次第によっては友達になってくれる。ポケモンが生き物だとしたら、これほど思いどおりになる生き物はない。」と思う。

そのあり方・生態を考察し「ポケモンは“夢”のような存在」とある種達観・冷徹な見方も持つようになった。

逆にサトシのピカチュウがゲームと違いトレーナーの言うことを聞かずモンスターボールに入らないのも、これらのゲームに対して端的に「“もの”ではないポケモン」という表現をする意味もあった。「ピカチュウは、サトシとは仲間であっても、サトシの所有物にはなりたくないのである」。


また、元々首藤氏は少年向けアニメにおける「勝利にこだわること」に対して懐疑的であった。「バトルに勝とうが負けようが、自分は存在しているのである。(中略)「人生が戦い」なんて考えると生きるのに疲れるし、「人生はそれなりに楽しい」と思う方が生きる気力が出ると思う」とも形容している。

当然、前述のようにゲームにおいては根本であるポケモンバトルに対してもあまり好感を抱いておらず、「ポケモンバトル闘犬がどう違うか、なぜバトルをしなければならないのか。自分は傷つかない代理戦争の勝敗に喜んでいいのか」という疑問も抱いていた。

そして首藤氏は、ゲーム序盤に子供達が一夏の冒険をする『スタンド・バイ・ミー』をオマージュした場面があることに気づき、ゲームを作った人達の思いがなんとなく分かったように感じた。


そのようなゲームに抱いた感想の経緯や、「勝利にこだわるような作品にはしたくなかった」「子供はいつか大人になり、夢見る虚構の世界から卒業するが、その時広がる大人の世界を、子供たちに殺伐とした目で見てほしくなかった」「かといって、虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供、という人間を育てたくもない」という思いから、『スタンド・バイ・ミー』のような『“ポケモン”の世界を、サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジーにしたい』『子供達が体験する懐かしい冒険の一時期を描きたい』と首藤氏は考えていた。


結果として、無印初期はゲームに忠実なポケモン大量ゲットの旅やポケモンバトルを中心にはせず、「旅の中での出会いと成長、そして別れ」を重視したロードムービーとなった。

無印初期でジム戦でサトシが完全に勝利していないにもかかわらず事態解決のお礼名目等でバッジを貰う(ナツメ戦、エリカ戦等)場面が何度かあったのは、その影響と思われる。


余談だが氏の執筆した小説版ポケットモンスターにも氏の特徴・思想が色濃く出ており、ジム・ジョーイ、10歳で旅立てるポケモントレーナーらがどのような収入を得て暮らしているのか、モンスターボール開発までの経緯といった世界観がシビアながらも細かく設定されている(カントー地方の設定も現実の関東地方に寄せてある)。

他にもサトシが等身大の少年として描かれているなど児童向けアニメを下敷きにしたとしては異質な空気が漂った作品となっている。


伏線編集

首藤氏はポケモンの放送が1年半、人気になって長くても4年といった放送スケジュールを想定のもと、最終回を構想したとのこと。

実はアニメ本編や劇場版シリーズには最終回の伏線がいくらか用意されていた。

以下がその一例である。


  • アーボとドガースが答えた「悪いポケモンはいない」発言(無印第17話)
  • ディグダがいっぱい!』(無印第31話)
  • ニャースのあいうえお』(無印第71話)
  • 『ミュウツー我ハココニ在リ』(テレビスペシャル)
  • ミュウツーの逆襲』(劇場版第1作)と『ミュウツーの逆襲の嘘予告』
  • 『幻のポケモン ルギア爆誕』(劇場版第2作)
  • 後述の『劇場版3作目没プロット』

いずれも首藤氏が直接脚本に関わっており、特に上記の映画3作のテーマは最終回に深くつながるはずだった。

他にも19話では、リゾート開発で住処を奪った人間に怒った巨大化ドククラゲに対しそれを排除しようとする人間たちが兵器で戦う描写などもある。


ゲームにおけるポケモンは、色々な特徴があり、愛着度はプレーヤーにとってそれぞれあるにせよ、基本はバトルゲームの駒である。その駒が、プレーヤーの意思を無視して、「自分とは何か」などと考え出しては困る。」。

しかし上記のエピソードのようにあえて、アニメのポケモン達は強い意思と自我を持った人間とは異なる生物として描こうとした。


上記の考えからこうした伏線を描き、首藤剛志氏はゲームにおけるポケモンのあり方を踏まえた上で、後述のような最終回の物語を構想した。


ストーリー編集

物語の終盤、サトシとの冒険を経てサトシのピカチュウは強力なパワーを持つポケモンに育っていた。


しかし、人間にゲットされたポケモンはゲームで戦いの道具にされること・人間の寵愛を受けたとしてもそれはペットにしか過ぎないことに対してポケモンは怒り、ポケモンと人間との共存は不可能という結論に達したポケモンと人間たちは争いを始める。

最強のポケモンとなったピカチュウはポケモンのリーダーに祭り上げられ、ピカチュウとサトシは争いを止めるのに苦悩する。


その戦いを止めるために奔走するのが意外にもロケット団3人組であった。

彼らはポケモンと人間の共存関係の見本になっており、そして『自己存在の問い』にはミュウツーが答えを見出し、彼らは一つの結論に達する。『自己存在のある限り我々はどんなものたちとも共存できる』と…。





年月がたち老人となったサトシは昔を思い出した。

空想・想像の生き物ポケモンとの冒険や友情や共存。それは、現実の人間の世界では、サトシが出会えなかったものだったのかもしれない。

しかし少年時代のどこかで、確かにピカチュウやポケモンがいて、ムサシがいてコジロウがいてミュウツー達との出会いがあった。

サトシの少年時代の冒険で出会ったすべてが、老人になったサトシの記憶にあり、眼前に見える。


「さあ、早く寝なさい。あしたは旅立ちの日でしょう」


翌朝、母親に叩き起こされたサトシは少年の姿であり、元気に家を飛び出していく。

それはポケモンゲットでも、ポケモンマスターになるためでもない、本当の自分は何かを探し、他者との共存を目指す旅である…。


補足編集

このエピソードは『ポケモンの反乱』『自己存在への問いかけ』『他者との共存』、そして『ある種の夢落ち』(胡蝶の夢邯鄲の夢)&『サトシ(ひいては視聴者)の少年時代へのノスタルジー』を描いたと言える。


言い換えれば、ポケモン世界に生きるサトシはある意味“夢(アニメ)の”世界に生きるサトシであり、最後に人とポケモンが共存する夢のポケモン世界を離れて旅立つ少年のサトシは、そのアニメを見終え、その思い出を胸に現実世界を歩みだす者(≒アニメを見終えた子供達)として描かれたということかもしれない。

「“自分だけ”の世界を優先して他者の世界を壊そうとせず、他者との共存を目指して現実世界を歩んでほしい」という思いを込めて、あえて夢オチともとられる最終回を構想したものと思われる。


サトシが「他者との共存」を目指すラストゆえか、劇場版『ルギア爆誕』ではその対となる存在といえるコレクタージラルダンが敵役として登場しており、彼のような存在が生まれることを危惧していたのかもしれない。

ジラルダンも実は悪意や他者を害する気持ちは一切なくただ珍しいポケモンを手に入れたいという欲求のみで動いており、使うものがマスターボールか捕獲器であるかを除けば実は伝説ポケモン幻のポケモンを手に入れたいだけのポケモントレーナーと本質に大差はない

ただしジラルダンはその過程で他人や世界がどうなるかには一切興味関心がなく、他者の世界を容赦なく踏み躙ることが彼を悪役たらしめている。


劇中におけるサトシの最終目標であるポケモンマスターについても、「『ポケモン』のアニメを、勝者になる事に人生の価値があるというような雰囲気の漂うアニメにはしたくなかった。 となれば、『ポケモン』のエピソードの中に、主人公の本来の目的である、ポケモンを戦わせるポケモン使い(?)の最高位であるポケモンマスターになるという事以外に、何か別の価値観を入れる事が必要となる。」と首藤氏は述べている。

そのことなどから、「最高位のポケモン使い」の称号は首藤氏の中では「ポケモンバトルマスター」の意味であり、あくまで「ピカチュウが最強のポケモンとしてポケモンのリーダーに祭り上げられる」最終回の前座であったことがうかがえる。

首藤氏の小説でも「ポケモントレーナーの理想は、どんなポケモンでも心を通わせて使いこなせるポケモンマスター」「どこの国でも、一人でも多くポケモンマスターを育てることを国の目標にした。なぜ、世界の国々が、互いに競うようにしてポケモンマスターを育てようとしているのか、それは、それぞれの国の最重要国家秘密である」と述べられており、バトル目的のポケモンマスターであることがうかがえる。


映画『ミュウツーの逆襲』では自己存在(アイデンティティ)に悩むミュウツーが描かれた。

映画『ルギア爆誕』では、悪意があるわけでは無いが自分のことにしか興味を持たず他者の痛みを気にせず他者の世界を自分のためだけに破壊するゆえに敵役となったジラルダン、それぞれの生き物には分を侵すべきではない住む場所があり世界の安定のために自分が幻であることを願うルギアが描かれた。

これらは、この『自己存在への問いかけ』『他者との共存』を描く最終回のテーマにつながるものでもあった。


そして、ロケット団のニャースが喋れる設定はこの「他者との共存」を描く最終回のために作られたといっても過言ではなく、人間になろうとして人間になれず、ポケモンとしても特異な、人間でもポケモンでもない孤独だったニャースが、戦いの仲裁に生きがいを感じ大活躍するといった構想であった。

首藤氏のひとつの理想としたポケモンと人間の在り方は実は、人がポケモンを使役する「ポケモントレーナーとポケモン」ではなく、「ムサシとコジロウとニャース」だった。


首藤氏は、この構想について「アニメ版のサトシは歳をとらない。そして、ドジで間抜けな大人を馬鹿にしたいと思う。だが、現実にはそんな大人はいない。そんなドジで間抜けな大人を年老いる事もなく演じ続けてくれるのがロケット団なのである。懐かしい子供の頃を思うとき、ロケット団の存在は、子供の頃、内心馬鹿にしていた大人たちを思い出させ、子供時代のノスタルジーをかきたてられる」、

ロケット団トリオが、大人になるサトシを追い抜いて「ポケモン世界」の永遠の主役になるラストのつもりだった」とも表現している。

この最終回こそ幻となったが、ニャースが話せることがポケモンの通訳役として重宝される・ポケモンと人間の会話などで活かされ続けたのは言うまでもない。


ゆえに本来アニポケで重要な役割を担うはずだったロケット団が、日常話の増加により単なる三枚目になったことには複雑な思いがあったため、映画『ルギア爆誕』でロケット団が大活躍し、「あんたが主役~!」とサトシに言うセリフにつながったという。


しかし、ポケモン人気は首藤氏の予想をはるかに超えており、結局この最終回は没になった。

総監督は10年は続けたいと考えており、せいぜい4年を想定していた首藤氏のモチベーションはとてもそれほど続けられるものではなかった。


首藤氏自身、テーマに悩んだり後述の映画脚本案を丸々ボツにされたこともあったりして繊細さからか精神状態が安定しておらず、早期にアニポケを離脱。

アニポケの長期化にあたり、多くの人々がポケモンを楽しむ姿を見て「ポケモンは水戸黄門ようなものでいいんじゃないか」「放映が3年を過ぎたあたりでは、僕自身も、『ポケモン』アニメに御大層なテーマやエンディングは必要ないという気になってきた。」と述べており、自らが考えたコンセプトへの意義を見失っていった模様。


結果として、サトシが主役を続けることについてファン界隈でも荒れる話題になる時期が続いたこともあり、一部の人にとって『“ポケモン”の世界が少年時代へのノスタルジーに』『子供達が体験する懐かしい冒険の一時期』とはならず、首藤氏が生み出したくなかった『虚構の世界で夢に酔いしれている、外見だけは大人で心はいつまでも子供』が生まれてしまったのかもしれないのは難しい話である。


首藤氏としては、ポケモンやゲームの否定と言うよりは、自己存在の肯定・他者と向き合い生きることを描きたかったものと思われる。

しかし、ともすれば「ポケモンはゲームの中の絵空事」「子供はいずれ『ポケモン』を離れるべき」「『ポケモン』世界の否定」ともとられかねないこの最終回は、実現していれば、首藤氏が以前担当した『ミンキーモモ』最終回以上に物議・賛否両論となっただろう。

下手すれば同じく首藤氏が以前担当した『アイドル天使ようこそようこ』の様に任天堂やスポンサー、視聴者の怒りを買い、ポケモン全般が永遠の黒歴史になっていた可能性も高い

というより、そうした「完全終末」こそ、首藤氏がコンテンツという概念に望んでいた在り方だった節もある。


劇場版ポケットモンスター第3作目(仮)編集

『結晶塔の帝王』の前身にあたる企画。これもやはり、没最終回と同じくサイトにて公表。


作品のテーマは『進化論』や『本物の動物』、そして『この世界とは何なのか?』である。

これはポケモンシリーズ当初の設定である「ポケモン以前には地球の生き物が存在していた」という設定を応用したもの。

実際に当時のテレビ絵本には子犬が登場するし、赤緑の図鑑説明には『インドぞう』が登場し、

『ミュウツーの逆襲』では、ボイジャーが『カモメ』の存在をほのめかすような発言をするほどだった。


後のシリーズでは、このような人間・ポケモン以外の生物の存在(あとは一部食用ポケモン以外の肉など)について、なかったことにされたりボカされたりととにかく曖昧な扱いをされている。

これは脚本執筆にも大いに影響を与えており、首藤氏はヤドンがただのんびりする日常回を書こうとして、小道具としてや蝿のようなポケモンにたかる小虫を出そうにも(それらをモチーフにしたポケモンや適するポケモンが当時いない為)出せずに苦労したとも語っている。


ストーリー編集

ポケモンと人間しか動物のいない『ポケモン世界』において、ある重大な発見があった。

なんと中生代にこの地球上で生きていたティラノサウルス化石が発見され、ポケモン学会は大騒ぎになる。

ここでオーキド博士は重大なことに気づく。

ポケモンがこの世に発生した時期も定かではなく、進化論(ポケモンでいう進化のことではない)はポケモンにも通用しない、新発見のポケモンはどんどん増えていくばかり。

しかも、地球上の動物(など)の記録は残っているのに、なぜか人々の記憶から消えていたのだ!

しかも誰もがそのことに疑問を感じていないのだ。


何かこの世界には秘密があるのか。人々も自分の生きる世界について考え始める。

その最中、突如ティラノサウルスが動き出し、ある場所を目指し進撃を開始する。

ポケモンや人間たちは踏みつぶされていく。とにかく邪魔なものは踏みつぶす。海も川も越え…。

町は破壊されてゆく、オーキド博士は研究所を踏みつぶされても「いつかこんな時が来ると思っていた。何故こうなるのかわからんけど」としかしゃべらない。

実はオーキドにもわかっていないのだ。『いつかこんな時が来ると思っていた』以外は。


ポケモンたちや人間は本能的にティラノを止めようとする。

ティラノを止めなければ『ポケモン世界』が危ういと感じたからだ。

ロケット団たちも協力し始める。

そこにはいつもの敵味方もありはしない。

しかし、冷静なのは『自己存在』をテーマとするミュウツーだけだ。


そしてティラノはある場所で動きが止まる。

果たしてその場所とは…。


以上がストーリーの概要である。

実際のプロットはもっと簡潔らしく、進化論や学会云々の話は大幅に削ってあるらしい。


没になった経緯編集

首藤氏はこれを企画するにあたり、反対意見はあらかじめ想定していた。それは『ポケモンの世界観の破壊』である。半年構想にかけたこともあり、それに対する反論は当然用意していた。


しかしトップが言い放った反対意見は、首藤氏の予想にはなかった意外なものだった。

それは『無機質なものに、意識が宿り動き出すというストーリーはヒットしない』というもの。

これはトップの久保氏が以前プロデュースした『爆走兄弟レッツ&ゴー!!』の劇場版(ストーリーは意識を持ったミニ四駆が暴走するという内容)がヒットしなかったからである(他に『ティラノサウルスでならポケモン映画以外でも書ける脚本だ。』という意見が出たからという話もある)。


久保氏はそういった経験から首藤氏のプロットを却下した。

首藤氏の想定した反論はあくまでストーリーやアニポケ世界観に関するものであり、ヒットするか否かという反論は予想だにしていなかった。

言い換えれば「興行収入数十億円を目指す、失敗が許されなくなったポケモン映画において、この脚本でそれぐらいのヒットを出せる確固たる自信があるならばいい」と言われたということである(久保氏はエンターテイメント性を重視しており、『ミュウツーの逆襲』のヒットに対しても自分の理論と違ったため驚いていた)。


しかし、全体的に暗く重いストーリーの『ミュウツーの逆襲』がなぜヒットしたか、自分が書きたい話を書いただけの首藤氏自身も理解しておらず、この3作目がヒットできるかについて明確に説明も説得もできるわけもなかった。

恐竜を出すプロットについて、ヒットする自信もなかった首藤氏は、久保氏の反対を否定できるだけの意見を持ち合わせておらず、それを泣く泣く受け入れざるを得なかったという。

そして精神状態は安定せず、『結晶塔の帝王』の制作途中で仕事を離脱することとなった。


止まった場所に対する考察編集

ティラノが動きを止めた場所はプロットを手掛けた首藤氏以外真実を知る者がおらず、当の首藤氏も種明かしをしないまま他界してしまったため、その真相は今でも闇の中である。


そのため、ファンの間ではこの手の考察が後を絶たない(首藤氏曰く、『動物とは何か?』『人間とは何か?』を考えればさほど難しくないとのこと)。

例として、

  • 『最初にティラノが発掘された場所』
  • 『世界の果て』
  • 『卵』
  • 『母親の元』
  • 『海』(ルギア爆誕の舞台である命の源)
  • ゲームフリーク』(ポケモンの製作会社)

など。


余談編集

上記のポケモンの反乱の設定のオマージュともいえる設定がのちのシリーズにも登場している。以下がその一例である。


このほか、映画『キミにきめた!』でも「ポケモンがいない現実世界」というこの没プロットを連想させるシーンが出てくる。

また、映画『ココ』でも人間とポケモンが争うシーンや、人でもありポケモンでもある特異な存在:ココが物語の中で重要な活躍をする。

恐らく、これらの作品は映画のテーマである「原点回帰」を強く意識しているのだと思われる。


最後に編集

結局没を食らっている上記2作品。

今も「せっかくなら見てみたい」というファンの声がある一方で、「オリジナル作品ではなく他社のコンテンツのアニメ化でやることじゃない」「やったところで面白いものになるとは思えない」「流石に作家性が強すぎる」と言った反対意見も多い。


ただし、これらについては普通ゲーム(のアニメ)自体が1年続くか長くて数年程度にもなれば珍しい業界(当然ポケモン以前はホビアニにてほぼ例がなく、ポケモンによる初の快挙といえる)にて、自身の作品が理不尽な打ち切りにあった経験がいくつかある首藤氏自身がポケモンの大ヒットなど想定できるわけもなかった。

そのため「もし、ゲームが短期に終わったとしてもアニメは記憶に残るものを」とアニメ版がなんらかの理由で最悪打ち切られることになってしまった場合を想定して脚本を作っていたのであり、さらに上述の様に新作がリリースされれば新シリーズを作るつもりであったことから、そうしたアニメ製作前の事情を考えていない批判は的外れになりうることに留意。また首藤氏は盛り上がっていた製作陣の事を考えて終わり方は多くを語っていなかったのだ。

仮に採用されていたとしても、原作サイドの監修やスタッフの意見によって一部の内容や描写が変更された可能性は充分考えられることである。


他にも、首藤氏は手がけた作品・サトシやロケット団といった生み出したキャラクターに加え、ポケモン史に残る大偉業を成し遂げている。

それは首藤氏の担当した作品に登場したオリジナルポケモンがゲームに逆輸入されたことである。

それこそが海の神『ルギア』である。

金・銀(当初はポケモン2)のゲームの開発時期が遅れていたおかげで組み込む余裕があった、とのこと。

首藤氏個人としては、「海は母性の象徴」と考えていたため男性ボイスのルギアは好ましくなかったらしいが、ルギアはそのかっこよさで以降の高い人気へとつながっていった。

アニポケ一話でサトシが目撃して終わりの、サトシ以外には誰にも確認されていない真の意味で幻のポケモンとして扱われる予定だったホウオウもこれを機に拾われ実装された。


パッケージポケモン(所謂伝説のポケモン)がストーリーに一切関わらないのが金銀のみなのはこのためである(初代はパッケージポケモンが御三家なので一応ストーリーに絡んでいる)。






関連タグ編集

首藤剛志 ポケットモンスター(アニポケ) 久保雅一 ホビアニ

ポケットモンスター(アニポケ第1シリーズ) スタンド・バイ・ミー


サトシ(アニポケ)


カスミ(アニポケ)…初代歴代ヒロイン。首藤氏はコラムにて「カスミとサトシに恋愛感情はない」とも語っているが、上記のようなストーリーにラブコメを組み込むつもりは当然なかったことが理由の一つ。


タケシ(アニポケ)アイリス(アニポケ)…元レギュラー。サトシの旅から離脱し、続編ではポケモンドクターを目指す姿やゲームにおける設定年齢を超えチャンピオンになっている姿が描かれている。


劇場版ポケットモンスター(ポケモン映画)

結晶塔の帝王 キミにきめた!


ポケモンGO… 首藤氏が脚本を書いていた当時オタクは社会問題の文脈で語られていたが、夢の世界を離れ現実を歩むラストの没プロットに対して「現実にまで拡張されたゲーム」として反論の引き合いにだされることもある。もっとも「(己の欲望のままに生きる行き過ぎた個人主義と逆の)他者との共存」というテーマを首藤氏は考えたので、他者を蔑ろにせず尊重していくというそのテーマは様々な「自己中」が問題となる現代にも通ずるものがある。


ゴウ(アニポケ)…上記のゲームをモチーフにしたようで、首藤氏の考えとは逆に多くのポケモンのゲットに主軸を置いたキャラクターとして描かれている。


ポケットに冒険をつめこんで…ゲーム作品としてのポケモンを原案としたテレビドラマ。


裏設定


サトシリセット


チゴラス/ガチゴラス…後に登場したティラノサウルスモチーフのポケモン。

イダイナキバ…「月刊オーカルチャー」の中で恐竜の生き残りではないかとする説が書かれている。このことから、ゲーム作品としての「ポケモンの世界」には実際に古代に恐竜が存在していた可能性が示されている


外部リンク編集


そして...(新無印・めざポケ編のネタバレ注意)編集

無印放送から20数年の時が流れ、新無印編にてサトシの旅シリーズの事実上の終演が発表された


新無印編の最終回である「サトシとゴウ!あらたなる旅立ち!!」ではサトシがホウオウと出会い、それぞれの道へと進むべくゴウと別れた。

別れという意味では没プロットに通じるものがあるかもしれない。ただしそれは「終わり」でなく「始まり」を意味するのが対照的となっている。


真の最終回編集

それから続けてサトシとピカチュウの物語の最終章「めざせポケモンマスター」が放送される。そしてその最終話「虹とポケモンマスター!」で本当の結末が描かれた。


ポケモンバトルにおいては事実上の頂点に辿り着いたサトシが、数々の冒険と出会い・別れを経て出した結論。


俺はまだチャレンジャーなんだって思ってる。

世界中全部のポケモンと友達になりたい。それがきっとポケモンマスターだ。


そしてサトシはピカチュウと共にまた旅を始める。その背後には相変わらずロケット団3人組が尾行していた…。


「夢から醒め、その思い出を胸に他者との共存を目指して現実を歩む」没プロットと「ポケモンと友情を交わし続ける果てなき夢を求めて旅を続ける」真の最終回。

対照的ではあるが、サトシが出した答えはまさしく「共存」と言えよう。

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