「海の神ルギア…あれが私の望んでいたもの…」
「私はあのルギアが、欲しい…!」
概要
担当声優は鹿賀丈史氏。
空に浮かぶ巨大な飛行艇:飛行宮(殿)に乗り、何事にも動じない穏やかな物腰の紳士。
後のビシャスなどのような世界征服といったことも考えておらず、ただ世界の珍しいものを集めることにこだわるコレクターである。
ここまでなら別に悪者には見えないのだが、その実態はコレクションのこと以外になんら興味を持たない男。
手に入れることを望むが、コレクションへの執着も薄く、全てを失っても新たなコレクションを手に入れることに心を向けるバイタリティの持ち主。
その過程で世界がどうなろうと彼に興味はなく、作中の異常気象も、原因は彼の手によって引き起こされたものである。そのことに彼が気づいているのか、認識しているのかすら不明。
伝説のポケモンもモンスターボールではなく、捕獲器に入れて籠の鳥のように飾っており、コレクターらしく「展示」にこだわっている。
後の映画「水の都の護神 ラティアスとラティオス」のエンディングにも雑誌の写真に写っていた。
テーマソングは「我はコレクター」。
米国版映画原作小説では、フローレンス3世という名前。世界中のポケモンを集めて私設動物園を造ろうとしていた。
飛行宮
外見は、天空の城ラピュタのラピュタ風外壁周辺に庭園を備えた超巨大飛行艇。
砲撃兵器を備え、中世ヨーロッパ風天文望遠鏡風ポケモン捕獲用兵器発射機を使用可能。
内外装もフランス貴族風ロココ調とかなり懐古主義者―自慢のコレクションに囲まれて、王様みたいな暮らしをしている。
劇中の活躍
新たなコレクションとして世界の危機に現れる海の神ルギアを手に入れるべく、飛行宮を用いて行動開始。
ファイヤー、サンダー、フリーザーの中でも特殊な個体であるアーシア島の伝承にある伝説の三匹の鳥ポケモンを狙い、ファイヤーとサンダーを捕獲器で捕獲。
結果、海流が乱れて世界規模の異常気象を巻き起こした。
悪人ではないため、サンダー捕獲の際に間違えて一緒に捕まえてしまったサトシ達をとりあえず飛行宮内部で解放してコレクションの閲覧を許可した。
が、モンスターボールではなく捕獲器に捕まっているファイヤー達を見たサトシ達は義憤に駆られて捕獲器を総攻撃して破壊しファイヤー達を解放。
怒り狂ったファイヤーとサンダーの猛攻によって飛行宮の飛行機能を破壊されて飛行宮が墜落。
それでも諦めずサトシ達に怒りや関心を向けることもなく、姿を現したルギアに興味を示し捕獲器を用いて捕獲しようとしたが、ルギアの反撃で失敗に終わった。
捕獲こそ失敗したが、このタイミングは氷の島で最後の宝を手に入れた後の全てが終わったはずのタイミングであり、この強襲でルギアは力尽きてしまう。
ルギアがなんとか復活した事態収束後、崩壊した飛行宮で生き残っており、ミュウのカードを拾い上げて月夜の中笑みを浮かべていた。
余談
キャラクター性
私は 誰かの王様ではない
私は 誰かの兵隊でもない
くだけた鏡を はりあわせていくように
こわれた世界をひろい集めているのだ!
我は コレクター!
ルギア爆誕は「それぞれの世界」をテーマとしているが、彼の存在は行きすぎた個人主義をテーマとしている。ジラルダン自身は悪党というわけでもなく、むしろただ欲しいものを追い求め続けているだけの紳士に過ぎないが、世界の危機などお構いなしと言わんばかりに自分の世界だけを追及し、他者の世界をためらうことなく破壊していく姿が彼の存在を悪役として成立させている。
ちなみにこのフリーダムな役割、前作のミュウツーによる「私は誰だ?」に対する「私は私だ!」の意味も兼ねているらしい。
地球が壊れようと宇宙が消えようと、彼は彼なのである。
「彼は地球の征服も滅亡も彼の目的にしてはいない。
彼は珍しいものをコレクションしたい自分本位の欲望のかたまりなのである。
彼の空中宮殿(博物館)には武器のように見えるものがあるが、それは相手を攻撃するためのものではない。
あくまで、コレクションにしたいものを捕獲する道具である。
彼の価値観は優れたコレクターとしての自分の存在にある。
だから、自分の空中宮殿(博物館)が壊れても、悔しそうなそぶりは見せない。全然めげた様子はない。
コレクションを集めたいという自分本位の欲望は、壊されたわけではない。
博物館が壊されたがゆえに、さらにコレクターとしての欲望が膨らみ、燃え上がる。
一度手に入れたコレクションには、逃がしたとしても、もう興味が薄れている。
ジラルダンは自分の登場する最後のシーンに幻のポケモン、ミュウのカードを見て微笑みすら漏らす。
おそらく彼は、次のポケモンのコレクションの対象をミュウにしたのだろう。
地球が壊れようと宇宙が消えようと、彼の自分本位な欲望には関係がないのである。
僕は、役は小さくとも、こんな自己本位な部分を見せる登場キャラクターで、この作品をうめつくそうとした。」
同時に、首藤氏は本作について「コレクターのジラルダンの存在感の薄さとルギアがオスなのがやはり気になりはした」とアクションが中心になってジラルダンの存在感が薄くなったことへの反省の弁も述べている。
批評
ポケモン映画の悪役は大抵は改心するか何らかの制裁を受けるのだが、彼には特にそういった描写は無く、そもそもサトシたちと絡む場面が少ない。
それでもラスボスのような威圧感を放ち、ほとんど動揺もしておらず、最後までその風格は損なわれていない。
彼の恐ろしさは世界を意識しないその考え方もあるが、一番はポケモンバトルを一切しないことである。ポケモンを捕まえるときには飛行船からの砲撃のみであり、捕獲にもモンスターボールを使わない。ポケモンの捕獲にはポケモン同士を戦わせてモンスターボールで捕まえるという、基本ルールを一切適用せず、伝説のポケモンを砲撃で一方的に蹂躙して手中に収めていく。
当然のように、サトシ達とポケモンバトルをすることもない。
ルールを守らず兵器を用いて手段を達成する大人のやり方は、現実と虚構が対峙する幻のポケモン映画3作目をどこかイメージさせる。
また、サトシ達はジラルダンが捕獲器を用いてサンダーとファイヤーを捕らえたことを非難しているが、裏を返せばジラルダンの捕獲はモンスターボールを使って行えば肯定されるものなのか。
実は劇中ジラルダンがしようとしたことはポケモンを捕獲し自分のものにすることだけであり、他のポケモン悪役のように伝説のポケモン悪用や世界征服などは考えていない。
だが、たとえ捕獲器ではなくマスターボールでファイヤー達を捕まえたとしても劇中のように世界のバランスが崩壊するはずであり、ある意味伝説のポケモンを己の手にしたいという夢を持つポケモントレーナーを、マスターボールを捕獲器に置き換える形で敵役として描いたものとなっている。
ちなみにどんなポケモンも問答無用で捕まえられるマスターボールはアニメの世界観にそぐわないこともあってか、『アドバンスジェネレーション』75話にしか登場したことがない。
このように実は悪意の下に行動しておらず単に自分の欲求に従っているだけの人物なので、サンダー捕獲の際に誤って捕らえたサトシ達を素直に解放。
展示品に触れないよう機内のエチケットを提示の上、飛行宮内の自身のコレクションを見学する許可を与えるなど、そもそも他人に危害を加えようという意識自体はない。
というより「我はコレクター」の「私は誰かの王様ではない」「私は誰かの兵隊でもない」のフレーズでわかるように、招待状を出して誰かを飛行宮へ招待することもあるが、基本的には誰かに干渉したり誰かに干渉されることは嫌いらしい。
コレクターとしての行動自体も「私は昨日を葬りはしない」などわずかながら過去の稀少な遺産を保護しているという意識もあるようだ。(・・・ただし、その保護も自分にとって素晴らしいと認めれば、であろうが)
上記のように首藤氏によると、彼は今回の件に関してまったく反省していないらしく、むしろ過去のコレクションを失ったことで新たなコレクションを集める野望に燃え上がり、一人のコレクターとしての意識はより悪化したとのことである。
・・・ブレない・・・。
なおルギア爆誕には総監督から上映時間がもう少し長ければとの意見もあったらしく、その時間で10分間のジラルダンタイムが入る可能性もあったらしい。
古代ミュウ
ちなみに飛行宮が大破したことでコレクションを失い呆然とする彼が最後に拾い上げたカードは、彼のコレクションにあった古代ミュウという名のカードである。
このカードはルギア爆誕の映画パンフレットに付属されるとともに、後の劇場版第22作目ミュウツーの逆襲EVOLUTIONのパンフレットにて再配布が決定した。
実はこのカードこそがジラルダンのコレクションの原点であったという裏設定があるのだが、これは彼が次のコレクションに加える目標として幻のポケモンミュウに興味を示したとのサイン。
もし彼が前作のミュウツーの存在を知れば、どんなことが起こるのか・・・なかなか恐ろしいものである。
余談だが、彼のルギア爆誕での振る舞いは、まさしく当時のバグ技を使ってゲームの世界をぶっ壊してでもミュウを手に入れようとしていたプレイヤーの姿だが、その映画の最後で古代ミュウを出したのは何かの皮肉なのだろうか。
モデルとなったと思われる、実在の人物
❑ルネ・ド・ジラルダン侯爵-1735年生まれのフランス貴族で、近代フランス風景式庭園設計家。
❑新聞王エミール・ド・ジラルダン―1806‐81:フランスのジャーナリスト,政治家。青年時代から種々の新聞を発行して成功した。1831年に女流作家デルフィーヌ・ゲーと結婚,この頃からパリでサロンを開き一流の政治家や文学者を集めた。36年には政治新聞《プレス》紙を刊行したが,同紙の購読料を大新聞の半額にし,その欠損を広告収入で埋めるという,当時としては画期的な経営方針をとった。また新聞小説を掲載して読者層を大幅に拡大した。他の大新聞もこれにならい,ここに新聞小説の流行が始まった。