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砲艦赤城の編集履歴

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砲艦赤城

ほうかんのあかぎ

数奇な運命をたどった摩耶型砲艦4番艦。川崎造船所に売却されたのち、合名会社尼崎汽船部で貨物船として戦後まで運用された。

概要


 砲艦赤城とは日本初の鋼鉄製軍艦として誕生した摩耶型砲艦4番艦。日清戦争義和団事件日露戦争に従事し、日清戦争さなかの黄海海戦では清の艦隊の集中砲火をうけ艦長の坂元八郎太は戦死、航海長の佐藤鉄太郎も負傷、「赤城」も損害を受けながらも軍令部長の座乗する輸送船西京丸を守り抜いたその奮闘ぶりから軍歌「赤城の奮戦」に唄われた。


 1912年3月に川崎造船所に払い下げられ、クルーズ船赤城丸と改名されたのちに尼崎汽船部へ再度売却された。尼崎汽船部では大規模な改造をうけ貨物船として太平洋戦争後に2度沈没したが、その度に浮揚されて1950年代まで使われた。


艦歴および船歴


建造から日清戦争まで


兵庫県神戸市に存在した小野浜造船所において1886年7月20日から建造され、1888年8月7日に進水した。前述した通り摩耶型砲艦4番艦ではあるが、船体構造の変換過渡期に差し掛かった関係で、同じ小野浜造船所建造の「摩耶」と石川島平野造船所建造の「鳥海」は鉄船、横須賀造船所建造の「愛宕」は船体が鋼骨鉄皮であるのにたいして、発注が遅い「赤城」は日本海軍初の鋼船としてフランス人技師ベラールの監督のもと建造された。


武装はクルップ社の24cm砲1門、15cm砲1門を搭載する予定だったが、兵装が過大という批判が出たため、4門の12cm砲と6門の47mm速射砲に変換している他、水雷艇対策用にノルデンフェルト機銃(初期の多銃身機銃の一つ。1本の銃身で大量に弾丸が発射出来るマキシム機関銃が出て来たことで廃れた)2門を搭載していた。


機関は2基のスコッチボイラーと横置2段膨脹式レシプロエンジン2基で合計出力963馬力を発揮したが、港湾防衛を目的に建造されたため最高速度は10ノットと当時としても低速であった。


日清戦争


1894年7月25日に開戦した日清戦争で「赤城」は戦闘に参加し、当初は朝鮮、大連、威海衛の間の哨戒に参加していたが、喫水が2.9メートルと浅いため、朝鮮湾の浅瀬を探索するために喫水の浅い船を必要としていた伊東祐亨提督によって同年9月17日におきた黄海海戦(鴨緑江海戦とも呼ばれる)で探索目的で戦隊に加えられた。


この戦いで「赤城」は諸般の状況観察のために来た軍令部長樺山資紀の座乗する輸送船「西京丸」の護衛にあたったが、「西京丸」と「赤城」が孤立したことで13時20分、清国の装甲巡洋艦「来遠」の攻撃を受けた。「来遠」を攻撃した「赤城」は相手に損傷と火災を追わせることに成功したが、反撃の斉射が艦橋に直撃し、頭部に被弾した艦長の坂元八郎太は戦死した。「赤城」は引き続き清国軍艦の攻撃を受けて前部下甲板に被弾、蒸気管が切断されたことで弾薬庫に行けなくなり、戦闘に支障をきたすことになった。艦長の代わりに艦の指揮を執った航海長の佐藤鉄太郎は離脱しようとしたが、速力で勝る「来遠」を振り切ることができず300メートルまで接近されたのち砲撃を受けて負傷した。絶体絶命だったが、「来遠」も「赤城」の砲撃による火災で追撃出来る状況ではなくなったことや、日本海軍の第一遊撃隊が救援に到着したため、虎口を脱した。これが軍歌でも唄われた赤城の奮戦である。この戦いで11名が戦死、17名が負傷した。


大損害を受けた「赤城」は艦隊より離脱し仮根拠地へ回航したのち、修理のため三菱長崎造船所に向かった。修理を終えたのちに連合艦隊と合流し第4遊撃隊に編入された「赤城」は連合艦隊第3遊撃隊所属として第2軍の護送に従事したり、威海衛日島砲台を砲撃するなど活動を続けて終戦を迎えた。



日清戦争後


1898年3月21日、「赤城」は二等砲艦に分類されたのちに義和団事件を迎える。イギリスアメリカ合衆国などの欧米列強による八ヶ国連合軍に日本も参加したことで上海に停泊中だった「赤城」も警備のため出撃し、反乱鎮圧に消極的だったを牽制している。(余談ではあるが、この八ヶ国連合軍参加艦の1隻にはのちに同じ尼崎汽船部所属の貨客船「第二君が代丸」の前身、ロシア帝国海軍砲艦「マンジュール」がいた)

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