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尼崎汽船部

あまがさききせんぶまたはあまさききせんぶ

 明治から戦後にかけて大阪に存在した船会社。ファンネルマークは白斜線2本。
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概要編集


 尼崎汽船部とはかつて「東洋のマンチェスター」と呼ばれた大阪に存在していた船会社である。

  

 1880年に尼崎(あまさき)伊三郎が128トンの蒸気船運輸丸を購入して伊勢湾の海運事業を開始したのが尼崎汽船部の始まりで、伊勢湾航路からの撤退後に大阪商船の設立に「独占されるのではないか」と反対の声があったため参加せず、独自に瀬戸内海航路を開拓した後に、日清戦争においては船腹不足のなか利益を得て1896年2月には北海道航路にも進出した。


 伊三郎は1904年1月に亡くなり、後を継いだ養子の2代目伊三郎によって尼崎造船部や尼崎耕地部など多角的に発展していき、1937年の全盛期には14航路を経営して、39隻もの船を所有するほど成長した。


 しかし太平洋戦争により関西汽船に戦時統合のため17隻を現物出資して朝鮮半島航路の運行を続けるも、その後の船舶の損失や敗戦による朝鮮半島航路廃止で打撃を受け、さらに戦後宇和島運輸などと共に再独立を果たすが直後GHQによる農地改革で耕地経営(尼崎耕地部)が不可能になったことで衰退、1952年に最後に残された大阪〜多度津〜尾道航路が加藤海運(現在のジャンボフェリー航路)に敗北して旅客営業を廃止し、翌年には最後の所有船であった「赤城丸」も廃船となっている。1955年の2代目伊三郎が死去した2年後に登記が抹消された。


 これだけなら良くありがちな昔の船会社かも知れない。おまけにまとまった資料がほとんど無く、詳細が解らない謎の会社でもある。何せ、明治13年創業の老舗かつ最盛期の船の所有数は当時の関西では大阪商船に次ぐ準大手だったはずなのに、社名が「あまがさききせんぶ」なのか、それとも「あまさききせんぶ」なのかと当時から社名の読みですらバラバラで、「尼ケ崎汽船」と表記されることもあった。理由は「あまがさき」出身の「あまさき」氏が設立したことがこの混乱の原因なのは間違いない。


 だが限られた資料からでも読み取れるほどオンボロ船に対する尼崎汽船部は少し……いや、いろいろと違っていたのだ。



尼崎汽船部の真髄 「使える物は徹底的に使う」編集


 この会社の特筆すべきは通常の船会社では廃船にして解体するようなポンコツ船を船体を継ぎ足して延長・機関換装は当たり前魔改造または独自の補修技術で長く使えるようにしていたことである。


 確かに戦前の日本は「ボロ船の墓場」「老船天国」と言われるほど老朽船が多く、船齢25年以上の老朽船が全体の25パーセント以上を占めていたが、この会社は度が過ぎていて「古船に異常な感心を示す」「最大の特徴はどこから見つけてくるのか、廃船同様の古船を不死鳥のごとく蘇らせて、何十年も使う」とまで資料に書かれるほど。当時からこの傾向は広く知れ渡っていたようで、「物好きの研究資料たる船が傘下に集まる」と本に書かれたり、「命惜しければ、尼崎の船に乗るな」という言葉があるほどだった。

 

 その結果、船齢ウン十年といった長寿船や変わった経歴の船が尼崎汽船部に集まった。(後ろの()は船名)

 


 ・琵琶湖で活躍していた2隻の鉄道連絡船が不要になったため解体した後にドックまで運んで魔改造した船を九州や大陸までの航路用に購入。そのうちの一隻は改装してから半世紀以上使われた。(第一、第二太湖丸)

 

 ・明治2年にグラスゴーで建造。沖縄初の定期汽船として活躍した鉄骨木皮船を北海道航路用に購入。この船は先々代の所有者が大金かけて直したが、数年使えれば良いと記すほどのボロ船だったが、40年近く運用して昭和10年に引退した。現役末期には鉄骨木皮船はかなり少数になっていたので広幡忠隆氏の著書「海運夜話」にも登場している。(大有丸)

 


 ・明治初期に日本で建造され西南戦争でも活躍した鉄船3度の機関換装を含めた改造で60年間使う。別の会社に売却された後、海難で失われたが、その時の船齢は80年を超えて日本海運史上の最長寿船となっていた。(電信丸)


 ・元は日本海軍の砲艦で、歌にもなる程の奮闘を見せたクルーズ船改造の貨物船。台風と触雷で2度沈没したが、その度に浮揚されて現役に戻り、最後まで尼崎汽船を支えた。(赤城丸)


 ・南北戦争時の封鎖突破船として建造。各国の船会社を転々と40年以上働いたのちに日露戦争で日本海軍に捕獲されて、日本でも40年近く稼働した鉄製貨物船。ちなみに尼崎造船部によって機関は700馬力の焼玉エンジンに換装しており、経済性も向上していた。(伏見丸)


 ・ロシア帝国海軍の砲艦としてデンマークで建造。日本に売却されて貨客船として使われたが、元が旧式の軍艦なので船首に衝角が突き出した奇怪な外観。なお変なのは外観だけではなく機関配置もおかしく、「寄木細工よろしく」古物の機関とボイラーをかき集めて仕上げた結果、そのままでは機関が搭載出来ないため左右の機関が差し向かいに配置。片方の機関を逆回転させることで解決させた。(第二君が代丸)


 ……ノンフィクションである。


 何故そうなったのかは、前述した通り造船所を所持していた強みもあるが、2代目伊三郎が「ドイツ人に似ている」と言われるほどの倹約家だったことも理由の1つで、すり減った機関や錆で痩せた錨鎖なども廃棄せずに手入れをしておき、たとえ10年が経とうとも保管して使える用に取っておくという話が残っているほどの倹約家だった。


彼の名誉のために言っておくと二代目尼崎伊三郎は半世紀近くに渡って尼崎汽船部を大きくしてきたり、阪済航路(第二君が代丸が担当していた航路)では対抗していた朝鮮半島最大手の朝鮮郵船を撤退に追い込んで独占するなど、やり手の実業家であり、日露戦争中は常陸丸等がロシア帝国のウラジオ艦隊に沈められ、交通がストップした時も、断固として大有丸や神代丸などが輸送を行い北鮮交通に大なる貢献をしたり、戦争後は朝鮮半島の郵便物を「補助金を出す」という総督府命令を断って、無償で搭載するという愛国者という一面もある人物だった。


関連項目編集

君が代丸 電信丸

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