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概要編集


君が代丸とは1922年(大正11年)から1945年(昭和20年)にかけて尼崎汽船部が運航していた貨客船である。戦前に存在した日本朝鮮半島を結ぶ航路としては関釜連絡船以外で数少ない定期船で、元はオランダ船の君が代丸ロシア帝国砲艦を改造した第二君が代丸の2隻が存在した。


なお君が代丸の「が」は本来は異体仮名なのだが、この異体仮名は明治後半にはすでに使われなくなった文字なので、ここでは「君が代丸」と表記する。


君が代丸編集

「君が代丸」の前身は、1891年(明治24年)にオランダロッテルダムで建造された642トンの貨客蒸気船スワーデクルーン(Swaerdecroon)号で、バタビアを母港として主にオランダ東インド諸島の定期船として活躍したのち1906年(明治39年)6月に中国経由で尼崎汽船部に購入された。

購入後は日本と朝鮮半島を結ぶ航路で就役し、1922年(大正11年)から数が多かった朝鮮半島の出稼ぎ労働者の旅客用として大阪済州島を結ぶ航路に投入されたが、1925年(大正14年)9月に台風と遭遇して航行不能となり人命を優先して済州島に座礁させられた。幸い損傷はそれほどでは酷くはなく、第二君が代丸が就役した後も貨客船として働き続け、太平洋戦争最中の1942年(昭和17年)に大阪商船の内航部や、宇和島運輸・摂陽汽船・尼崎汽船部・土佐商船・阿波国共同汽船・住友鉱業が共同で設立した関西汽船に移動した。


最後は1945年5月23日に大分県姫島付近(北緯33.06度、東経129.43度)でアメリカ軍の飢餓作戦により敷設された機雷に接触して沈没した。


第二君が代丸編集

「第二君が代丸」は尼崎汽船が座礁した「君が代丸」の代船として1925年(大正14年)に購入した、総トン数919トン、垂線間長62.8メートルの船である。その奇怪な外見と戦争末期まで済州島と日本を結ぶ阪済航路で働いていたからか、今日「君が代丸」として語られる多くがこの第二君が代丸のエピソードであり、1970年代まで済州島には大きい事を「君が代丸のようだ」と表現する慣習が残っていた。


尼崎汽船に売却されるまで編集

この船の前身はロシア帝国海軍のマンジュール(ロシア語で満州人の意)号といい、1886年にデンマークバーマイスター&ウェイン社で建造された排水量1224トンの砲艦だった。1891年にはロシア皇太子(後のニコライ2世)の護衛艦として日本にも来航している。日露戦争期には太平洋艦隊所属艦として中立の上海に停泊していたため、抑留されたのちに武装解除されたが、戦争が終結した後にウラジオストクに戻って戦列復帰した。ロシア革命が起きた1917年(大正6年)に赤軍に捕獲されたが、翌年には白軍に取り戻されて修理と乗組員の補充を受け、白軍の残存者や難民の避難に備えた。赤軍がウラジオストクに迫ってきた1922年(大正11年)10月23日、ゲオルギー・カルロヴィチ・スターク少将の指揮下の元、1万人の難民を乗せたシベリア艦隊の残存部隊はウラジオストクを離れた。マンジュールを含めたシベリア艦隊25隻の船がウラジオストクを出港し、カムチャツカとオホーツク海からも船舶が合流したため船団は30隻の大所帯となった。11月末に日本統治下だった元山、次に釜山に入港したが、日本はロシア人の上陸を認めなかったため元山に残された船舶を除いた19隻が上海に向けて出港した。12月5日、上海に入港して難民を降ろすとフィリピンへと向かい、マニラに到着したのち、スターク少将は自主艦隊の残存船団と蒸気船を売却して売上を旧シベリア艦隊の下士官や兵と将校に均等に分け与えた。元山で係留されたマンジュールは船歴40年近い老船のため、大阪に廻航された後に解体されるかと思われていたが、日本に買い手はいた。「古船に異常な関心を示す」と言われた尼崎伊三郎率いる尼崎汽船部である。


尼崎汽船時代編集


尼崎汽船部に購入されたマンジュールは貨客船に改造して再利用された。詳細は不明だが、尼崎汽船部は系列会社に尼崎造船所があったためそこで改造工事されたと言われている。改造が終わったマンジュールは「第二君が代丸」と改名された。


半年間かけて改造された第二君が代丸はこんな船だった。


タンブルホームの大きい船体で船首には他船を沈めるための衝角が突き出ている元砲艦という出自がすぐわかる奇怪な外観


・外観もおかしければ、機関も奇想天外で、経済的ではない6基ものボイラーに燃費の悪い機関だったので、改造時に別々の古船からかき集めた蒸気機関とボイラーを搭載して「寄木細工よろしく」仕上げられた。(広幡忠隆氏の「海運夜話」では単軸船だったのを2軸船に改造したと記述されているが、これは誤りでロシア語の図面ではマンジュール時代から2軸船である)


・この時、機関室が狭くて2基並べられない問題が生じた。仕方がないので2台の機関を差向いに並べて配置したが、「前後逆」になった左舷機関の回転方向も逆になるのでぐるぐる廻って真っ直ぐ進まなくなる問題が起きた。そこで左舷機関を逆回転で常用されることになり、この結果、第二君が代丸は前進している時は片方の機関は前進、もう片方の機関は後進となった。……お前は何を言っているんだと言われそうだが実話である。(ちなみにマンジュール時代の機関は横置の2段膨脹式2基でさらにスペースを取るため、機関は互い違いに配置されており、左右のプロペラシャフトの長さが違っていた)


・君が代丸が運んでいた旅客は生きている人だけではなく、死者も運ぶための棺の安置場所の追加。これは済州島の風習で例え異境で死んでも遺体は済州島に葬られたいという望みがあったからで、尼崎汽船部では食事時にはお供え用のご飯がまず最初に準備されたという証言が残されている。ただしサービスが良い分、料金も高く、生きている旅客の5倍の運賃だった。


この風変わりな船は戦争末期まで阪済航路で働いたが、1943年(昭和18年)に鉄道連絡急航汽船株式会社に尼崎汽船部が吸収される形で設立した尼崎汽船株式会社に移籍。2年後、6月1日の大阪大空襲で沈没した。

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