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伏見丸(日本郵船)

 

 三菱長崎造船所で237番船として1912年10月28日に起工し、1914年11月23日に竣工した日本郵船の貨客船太平洋戦争前にヨーロッパ水域からの最後の引揚船として運用されたことで知られている。

 

1943年2月1日に東京から基隆に向けて航行中、御前崎灯台の175゚約28km地点(34゚20'N/138゚18'E)でアメリカ潜水艦ターポンの発射した魚雷を左舷第2船倉に受けて損傷。航行を続けるが、今度は右舷側2船倉に魚雷2本が命中したことで航行不能となり23時55分に沈没した。

  

伏見丸(尼崎汽船部)

 

 1864年にスコットランドのダンバートンに存在したアーチボルト・デニー造船所で32番船として建造された貨物船。当初は封鎖突破船としての運用を考えていたのか、ケンタッキーという船名だったが、翌年に所有者が変わったことでタレス(Thales)と改名された。

 当時英国領だった香港の個人に売却されたのち、1883年に香港のダグラス汽船社(Douglas Steamship Co)の設立と共に移籍し、主に香港と台湾航路の定期船として運用された。1892年には荒天で沈没したP&O社の貨客船ブハラ号(SS Bokhara)の捜索を担当し、生存者23名を救出している。

 1895年、日清戦争後に勃発した台湾征討中も本船は定期航路を続けた。同年10月19日、日本軍の猛攻と物資の欠乏に耐えかねた大将軍劉永福はタレス号で中国本土に逃走を図ったが、逃走の情報を掴んでいた日本軍は通報艦八重山を派遣し、廈門に入港しようとしていたタレス号を臨検した。

しかし、肝心の劉永福は捕縛することはできなかったばかりか、この臨検が公海上であったことをイギリスは重く受けとめて厳重抗議をした。これを受けて八重山艦長の平山藤次郎海軍大佐と上司の常備艦隊司令長官、有地品之允海軍中将が責任を取って予備役に編入することで解決が図られた。(タレス号は当時の日本ではテールス号と呼ばれていたので、この外交問題はテールス号事件と呼ばれた)

 テールス号事件後も台湾航路に就役していたタレス号だったが、20世紀に入ると大阪商船による競争に太刀打ちできなくなったダグラス汽船社は台湾航路の撤退を決め、1904年にタレス号はドイツ領青島在住のエドゥアルト・アイヒヴェーデ所有となり、船名もフェテラン(ベテラン、ヴェテランと表記されることもある)と改名した。

 ドイツ商船となったフェテラン号だったが、その経歴は短く、登録変更を終えた1週間後の1904年11月19日、青島から旅順に向けて航行中に日本海軍の通報艦龍田に拿捕されてドイツ商船としての経歴を終えた。時は日露戦争の真っ最中であり、表向きドイツの商会宛の積荷がロシア帝国向けだったことから拿捕は正当と認定され返還は拒否された。

 佐世保に回航したフェテラン号は日本海軍に編入され、輸送船八浦丸と再改名されたが、当時ですら船齢40年を迎えた老朽船だったこともあり、翌年には民間に払い下げられている。

 1907年に神戸在住の田中松之助に売却され、伏見丸(船舶番号 10293)と改名したが、2年間で2度売却されて日本を離れた。大韓帝国元山在住の崔任増が伏見丸を購入したからである。崔任増は伏見丸を俊昌號(船舶番号 朝29)と改名したが、日韓併合の影響からか、3年後には俊昌丸と名を改めている。(当時の日本では軍艦と間違えることを防止するため、民間船は出来るだけ船名の最後に丸をつける法律が存在した)

 1913年、俊昌丸は西宮の荻布宗太郎に売却され、再度伏見丸と改名した。(船舶番号は朝鮮半島売却前と同じ10293) その後も何度か売却され続け、1924年に尼崎汽船部の所有船となった伏見丸は僚船の赤城丸と同じく主に朝鮮半島と大阪を結ぶ航路で運用された。すでに船齢60年をこえた老船だったが、結果的に尼崎汽船部では20年以上運用され、1930年後半には老朽化の進んでいた機関を焼玉エンジンに換装されて発動機船となっている。(余談ではあるが、機関換装前は当時ですら非常な珍品と言われたオーバルボイラー(楕円缶)を搭載した珍しい船として知られていた)

 

 この悪運強い船は太平洋戦争末期まで運用され、1945年4月6日に石炭1200トンを搭載して下関に向かう途中、六連島沖で触雷により沈没した。

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