概要
電信丸とは1873年(明治6年)に日本の築地で建造された鉄船 (練鉄で造られた船。日本の近代建造史では木造船から一足飛びに鋼鉄で造られた鋼船が主流となったため数が少ない)である。当初は神戸の旧称である「カウベ」という名前でドイツ商船として運用されていたが、西南戦争時に大阪で売却されて「電信丸」に改名された。
大変な長寿を保った事でも知られていて、太平洋戦争をくぐって生き延び、四度目の機関換装と船尾機関型への船体改造を終えて「甲栄丸」と改名した4年後の1957年(昭和32年)に行方不明になるまで活躍した。
船歴
建造から尼崎伊三郎が購入するまで
電信丸の前身「カウベ号」の建造は1873年(明治6年)5月に「セヱシイル」という外国人が建造のため築地税関所属地を借用したいとドイツ領事に申し出た事が資料で裏付けられている。日本側との協議の結果、業務に差し支えのない税関波止場北側地所200坪を6月より5ヶ月間借りて建造場所とすることになった。
建造経緯は詳しい事は解っていないが、「カウベ号」の建造は臨時的な借地であったことや、5ヶ月という決して長いとはいえない建造期間、ドイツ領事館に申し込んだ事からイギリスかドイツで部品を作っておいてドイツ人商人が輸入し、日本で組み立てるノックダウン船であった可能性が高い。
建造から4年間の動向は不明で、次に日本の記録に「カウベ号」が出てくるのは1877年(明治10年)3月17日付の横浜毎日新聞。この時のカウベ号は横浜に停泊しており、神戸に船を売却しに行く途中だった。時は「西南戦争」の最中で薩摩軍がまだ力を持っていた時期。本船の動向は「乗組員ごと船を薩摩軍へ売り渡すのではないか」と税関や海軍に怪しまれ、ドイツ国商人キニッフル(キニフルとも書かれる事がある)所有「神戸号」として偵察を受けている。同年6月、大阪で「カウベ号」は船主古野嘉三郎に売却されて「電信丸」と改名し、政府軍の輸送船として働いた。この結果、日本で建造されたのに外国からの購入船という訳の解らない事になっている。
西南戦争後も数少ない鉄製汽船だった本船は古野嘉三郎の元で瀬戸内航路や九州航路の定期船として活躍し、1884年(明治17年)に大阪の有力船主達が船を出しあって設立した大阪商船(株式会社商船三井の前身)に移籍したが、短期間で売却されて船主を転々とした。
1887年(明治20年)、電信丸はある船主に購入される。尼崎の貧しい農家出身で笊や魚の行商人をしながら蓄財し、西南戦争では船長として働いた後、船主として伊勢湾航路の開拓をしたその男の名は尼崎伊三郎。後の尼崎汽船部の創立者である。
尼崎伊三郎時代
購入された翌年の1888年(明治21年)、電信丸は機関を単気筒の蒸気機関2基から二連成蒸気レシプロ2基に機関換装をされて瀬戸内海や九州までの貨客船として就役した。尼崎伊三郎の手腕は確かなもので、船や定期航路は増加の一方をたどり、1903年(明治36年)には尼崎家が設立した尼崎汽船大阪共同組に移籍した。
翌年の1月、尼崎伊三郎は宿痾のため亡くなったが、後をついだ2代目尼崎伊三郎(旧名:松井豊太郎)も先代が数多い血縁の中から養子に選んだのだから的を外すことはなく、なかなかの才覚の持ち主だった。2代目が後を継いだ直後に起きた日露戦争では日本郵船の常陸丸等がロシア帝国のウラジオ艦隊に沈められ、交通がストップした時も、断固として大有丸等が輸送を行い北鮮交通に大なる貢献をした。
1905年(明治38年)4月、尼崎汽船大阪共同組は合名会社尼崎本店汽船部へと改名。大阪から瀬戸内海航路や九州までの運輸や旅客を担当していた電信丸もその1隻として活躍を続けた。当時としても船齢30年を超えていた老船だったが、本船は明治41年(1908年)に三連成2基に機関換装を終えた。この時は船体にも手が入れられ、真っ二つに切断した船体を5メートル近く延長して貨物積載能力を向上させた結果、トン数も230トンから294トンに上がった。 その後、25年以上に渡って貨客船として運用されたが、流石に機関の老朽化が進んできたことや、系列会社の尼崎造船部が建造した大衆丸が就役したことで貨物船に転用されることになった。
1934年(昭和9年)貨物船に改造された電信丸は3度目の機関換装を終えて再就役した。機関が日本発動機製の焼玉エンジン1基に換装されたのに合わせて、単軸船になった電信丸は太平洋戦争開戦後の1942年(昭和17年)に関西汽船に移籍するまで尼崎汽船部の貨物船として瀬戸内海航路や九州航路を駆けた。
関西汽船に移籍
太平洋戦争直前の1941年(昭和16年)11月11日、大阪商船・宇和島運輸・摂陽汽船・尼崎汽船部・土佐商船・阿波国共同汽船・住友鉱業のの役員達は、関西汽船創立に関する申合書を作成した。合名会社尼崎汽船部は電信丸を始め17隻を出資し、翌年の5月4日に関西汽船は設立した。
船歴69年の本船は関西汽船設立に参加した88隻の最古参かつ唯一の1870年代建造だった。(ちなみに2位も同じ尼崎汽船部所属だった第一太湖丸だが、設立から一週間も経たない5月10日に沈没している)
人間であれば古稀を迎える古船かつ最高速度7ノット半という鈍足船であった電信丸だが、戦時下かつ急速な船舶喪失による船腹不足の中ではのんびりするヒマなど無く、軍用船として東南アジアまで航海するなど働き続け、無事に終戦を迎えた。
売却、そして行方不明
戦後、過度経済力集中排除法の公布をみて財閥解体の進む中、戦時統合によって創立した関西汽船に対
し、尼崎汽船株式会社、宇和島運輸及び阿波国共同汽船の三社は分離要請を行って、1948年(昭和23年)開催の関西汽船臨時株主総会の承認を経て、尼崎汽船10隻、宇和島運輸4隻、阿波国共同汽船4隻の船舶返還は実現した。
電信丸が返還された時の尼崎汽船株式会社(1943年(昭和18年)に鉄道連絡急航汽船株式会社に吸収される形で設立した尼崎汽船部の後身)は危機的状況だった。太平洋戦争による船舶の損失や敗戦による阪済航路の廃止、空襲による尼崎造船部の補修能力の喪失、さらにはGHQによる農地改革で耕地経営(尼崎耕地部)が不可能になるなど痛手が続いた。
戦争で痛め付けられた僚船が満足に修理されず廃船になるなか、電信丸も1950年(昭和25年)に売却された。購入した吉田益蔵は最後の機関換装と船尾機関型への船体改造を行い、船名を甲栄丸に改めた。1957年(昭和32年)7月、甲栄丸は広洋船舶に売却、改装したばかりの本船はまだ当分は働けると思われていた。
同年11月18日夕方、380トンの石炭を積載して熊本県天草の牛深港から大阪に向けて出港した甲栄丸は乗組員8名と共にそのまま消息を絶った。最後まで無線が積まれて居なかったので出港後に何があったのかは未だに解っていない。
行方不明になった時の船齢84年と極めつけの高齢船だったこの小さな船の事をラ・メール誌に連載されていた「名船発掘」ではこう記している。船の怪物というべき驚異的な持久力の持ち主と。まさしくその言葉に相応しい船は歴史の闇へと消えていった。