大日本帝国海軍の軍人、戦闘機搭乗員(1916年~2000年)。最終階級は中尉。
太平洋戦争ではその大半の期間を前線において過ごし、
エースパイロット(撃墜王)の一人として知られた。
公認撃墜数は64機(自称)。
本人は「飛行機を壊さなかったこと」、
「僚機を撃墜されなかったこと」の方を誇りにしていたという。
(僚機を撃墜されなかったエースパイロットは史上唯一である)
略歴
ラバウル基地所属時代のガダルカナル争奪戦を含め、零式艦上戦闘機で200回以上出撃している。
撃墜数100機オーバーがゴロゴロいるドイツ軍のエースたちと比べると、坂井のスコアはいささか見劣りするように見える。また、日本軍にも岩本徹三という坂井の2倍以上のスコアを誇るエースがいる。しかし、坂井がその活動期間を通じてほとんど太平洋方面で活動したことを考慮する必要がある。太平洋戦線は日米とも戦場と根拠地(または空母)が離れているため、ヨーロッパ大陸や中国大陸と比べ撃墜数や出撃回数は控えめになりがちである(1回の出撃がほとんど1日がかり)。
その中でも増槽なしで航続距離が2000kmを超える零戦専門のパイロットとしては最多出撃数を記録している。心身に多大な負担がかかる長距離飛行を繰り返しながら、多数の敵機を撃墜し、さらに同時に出撃した僚機を失わなかったことは、他に例を見ない。リアルチートの1人である。
日本のエースと呼ばれる人物の中で、一般人にまである程度その名が浸透しているという点では陸軍の加藤建夫とともにツートップだろう。
逸話
輸送機
1942年初頭のインドネシア方面の上空で、
オランダ軍の大型輸送機を撃墜、または基地に誘導するべく接近した。
しかし、コクピット後方に民間人の母娘の乗客を確認し、輸送機はわざと見逃した。
(司令部には『敵が雲の中に逃げたので追跡は断念した』と報告。実際その通りだったが)
この輸送機の乗客の一人は戦後に再会を果たしている。
本人は軍命に背いた事を恥じており、秘密にしておくつもりだったようだ。
ガダルカナル上空にて
ガダルカナル上空では攻撃機の銃座に撃たれて重傷を負った。
失血で遠のく意識の中、4時間の帰路を操縦して帰投を果たしている。
この負傷により右目の視力を失い、左目の視力も低下した。
負傷により片目となった坂井だったが、搭乗員を辞めさせられそうになっている。
しかし新しい司令官の理解もあって最前線復帰。
のちに長崎の大村や横須賀の教育部隊に異動し、後進の指導に当たる。
硫黄島防空戦
1944年6月22日、坂井三郎は本土に温存されていた戦力として硫黄島防衛にかり出された。
同6月24日、アメリカ海軍は先手を打って硫黄島を空襲。
迎撃に出撃した坂井であったが、不意に右後方から銃撃されている事に気付く。
そこで肩バンドを外して後ろを振り返り、片目である不利を補いながら切り抜けている。
さて本当に凄いのはここからである。
空戦が一段落し、引き上げようとした坂井だったが、なんと敵編隊に合流してしまった事に気付く。
15対1という圧倒的不利にも関わらず、敵の射撃をすべてかわして帰還している。
敵の中でも経験の浅い4人は円陣を組んで相互防御していたのだが、坂井の巧みな操縦で防御陣形を崩されている。
本人は著書のなかで『逃げるので精一杯だった』と書いているが、
それはこっちのセリフである。しかもこの後、正確な航法でもって基地へ帰還している。
(さすがに堪えたらしく、この後体調を崩して地上待機になっている)
戦後
戦後は印刷会社に務めながら戦記ものや人生論などの本を執筆し、
とくに『大空のサムライ』は世界的ベストセラーとなった。
ある時坂井氏は、戦記漫画を描いていた頃の漫画家・水木しげるに、
「勝った内容じゃなければダメだ」とアドバイスを送ったことがある。
しかし、日本軍優勢時に活躍した坂井氏と、劣勢期の戦場にいた水木では、戦争の捉え方が違っており、
水木は坂井氏の言葉を理解できず、アドバイス通りに描けず苦労したという。
その後の水木は妖怪漫画に転向し、後に実体験を題材にした漫画『総員玉砕せよ!』を描いた。
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パイロット 零戦 大空のサムライ 坂本美緒(ストライクウィッチーズ)
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル:ドイツ空軍のエースパイロット。