来歴
1926年4月5日、アメリカ合衆国ミシガン州デトロイトに生まれる。
大学卒業後、コネで20世紀フォックスに入社するがすぐに退社。イギリス留学を経て、1954年からハリウッドでキャリアを積む。やがて多くの低予算映画を監督するようになる。
初期はインディペンデント映画会社のAIP(アメリカン・インターナショナル・ピクチャーズ)に属し、エドガー・アラン・ポーの映画化作品が評価を得た。
1970年、自身の映画会社ニューワールド・ピクチャーズを設立。このころからプロデューサーとして製作に専念する。相変わらず低予算映画を量産、その中で以降の映画史で活躍する映画監督・俳優を多数輩出し、後に伝説となる。
1983年、ニューワールドを売却し、新会社コンコード・ニューホライズンを設立。
1990年、自伝となる『私はいかにハリウッドで100本の映画をつくり、しかも10セントも損をしなかったか』を出版。
2011年、コーマンの映画人生を追ったドキュメンタリー映画『コーマン帝国』が公開。
生涯現役。
作風
基本的に「早い・安い・うまい」である。
- 特撮はへぼい。使いまわしは基本。しかもそれらを早撮りすることで予算を節約した。『血のバケツ』を撮った後、セットを流用して『リトル・ショップ・オブ・ホラーズ』を2日で撮ったという逸話は伝説。
- 作りが貧乏な代わりに、斬新なアイディアや観客が望んでいるもの(おっぱいや血みどろ)を出すことで満足度を上げた。
- 何かがヒットするとすぐパクる。流行りそうな大作映画の情報を聞きつけると類似品を低予算でサッと仕上げ、元ネタより先に公開する。
これらはエクスプロイテーション映画(搾取映画)と呼ばれ、よくある手口だが、コーマンはその業界を代表する人物である。
こういった作品はその場しのぎの娯楽として消費されるのがほとんどだが、たまに間違えて名作が生まれる(ジャック・ニコルソン談)。
人物
- 庶民の不満を取り上げ、映画の中で解消すれば、低予算でも満足させられるという観点から、作品の根底には反骨精神が通っている。体制を揶揄するブラックコメディは多いが、一回だけ黒人差別を批判する真面目な映画を撮ったことがある。珍しくコケた。
- 海外の映画もよく観ており、さまざまな作品を配給することでアメリカに紹介した。黒澤明との交流もあったとか。ただし『風の谷のナウシカ』を痛快エンターテイメントに改変して宮崎駿がブチ切れたという話もある(コーマンに限らず、昔からアメリカではよくあることとはいえ)。
- コーマンの低予算現場で修行を積んで、後に出世した監督はジェームズ・キャメロン、フランシス・フォード・コッポラ、マーティン・スコセッシ、ガス・ヴァン・サント、ジョー・ダンテ、俳優はロバート・デ・ニーロ、デニス・ホッパー、ピーター・フォンダ、そしてジャック・ニコルソンら、錚々たるメンツである(割愛したが、まだまだいる)。売れない時代に世話になったと語る者も多く、こういった成果がコーマンの名を余計に神格化させている。