どりこの
こうだんしゃのえいようどりんく
今でいう栄養ドリンクのような位置づけの飲料。
色はウィスキーや蜂蜜の色に近い琥珀色で、成分の大半がブドウ糖と果糖でありながら、甘いだけではなくほのかな酸味もあり、カルピスの様に水や牛乳で薄めて飲用した。
誕生まで
疲労回復の研究を行っていた医学博士の髙橋孝太郎は栄養補給にブドウ糖の摂取が最も効率的であるとする、生理学者アーノルド・ドーリックの論文にヒントを得て、5年の歳月をかけて「含糖栄養剤」という飲料水を開発し、1927年に特許を取得し「どりこの」と命名する。「どりこの」の名はドーリックの「DURI」、髙橋孝太郎のイニシャル「KO」、一番弟子の助手の中村松雄のイニシャル「N」、さらに3人の助手に共通するイニシャル「O」をつなげたものである。
講談社による独占販売
特許取得から3年後の1930年、どりこのはある企業と独占販売契約を結ぶ。
驚くなかれ。その企業の名は「講談社」(当時は大日本雄弁会講談社)。といっても講談社は他にも当時胃薬など医薬品事業を手掛けていた。
値段は一ビン450cc入りで1円20銭と、牛乳が一ビン6銭、コーヒーが一杯10銭程度であった(1銭硬貨は現在の30円前後の貨幣価値があり、1円札は現在の3000円前後の紙幣価値があった)時代としては少々高価であった。
しかし講談社創業者当時の社長の野間清治は「幾ら使っても構わない」と部下に指示し、著名人を使った広告や試飲会、パレードといった大々的なキャンペーンを企画する。
こうしたキャンペーンの結果、1931年だけでも販売数220万本を超える人気商品となった。また海外にも「DRINKALL」や「得力根」の名で輸出された。
しかし第二次世界大戦が始まると、サトウキビの輸入が滞ったため生産は減少。1944年9月にはついに原料配給が滞り、「どりこの」の生産は中止された。
戦後
終戦から9年後の1954年に、生みの親の髙橋は「どりこの」の製造を再開したが、独占販売を結んだ講談社との関係は失効しており、年間4~5万本程度を受注で生産していたが、1970年、髙橋本人の死により生産中止となった。その後1979年に三越百貨店で髙橋の甥が作成した「どりこの」復刻版が発売されたが、4年ほどで販売終了した。
東京・田園調布には現在でも「どりこの坂」と呼ばれる坂がある。また現在でも「どりこの焼き」や「どりこの饅頭」を販売する店もある。誕生から100年近くたち、どりこのの名は昭和から平成・そして令和となった現在も生き続けている。