アンディ・パートリッジ
あんでぃぱーとりっじ
アンディ・パートリッジは、マルタ出身でイギリスのスウィンドン育ちのミュージシャンである。
多くの写真では、丸いサングラスを掛け、独特な形の帽子をかぶっている。
ヘリウム・キッズなどでのインディーズ活動を経て、XTCとして1977年に3D-EPでデビューした。当初はテクノポップ的パンクバンドのサウンドだったが、バンド史上最高のチャートになった5thアルバムのイングリッシュ・セツルメント発売後、TV番組オールド・グレイ・ウィスル・テストでノー・サッグズ・イン・アワ・ハウスを演奏した際にステージフライトを発症、その後も症状は治らず、ツアーはキャンセルされた。これ以降、アンディはライブをしないと決めた。(しかし新アルバム発売のたびにテレビには出演している)
ライブをやめ、アルバム「ママー」レコーディング中にドラムスのテリー・チェンバースが辞めたことなどから、アンディはデモテープ作成に凝るようになっていった。(その様子は彼のデモ・テープ集であるファジー・ウォーブルズ・シリーズで聴くことができる。後期の曲になればなるほど完成度が上がっていく)
1986年に発売されたアルバムスカイラーキングの制作中には、プロデューサートッド・ラングレンとの確執や、アンディの強引さにうんざりしたコリンが、ベースのキーが違うとアンディに言われたことでキレてバンドをやめそうになるなど、色々と事件があった。
1989年のオレンジズ・アンド・レモンズの発売時には、周囲の強い説得もあってアルバムのレコーディングが行われたアメリカで、ラジオ局を回ってアクースティック・ツアーを行った。一部の会場には観客もいたそうだが、アンディは楽しんでいたようである。また、一説にはこのツアーが、かのMTVのUnpluggedという番組の元になったという。(XTCがMTVで演奏したのは5月16日で、MTVのUnpluggedが始まったのは11月26日)
1992年、XTCとしてヴァージン・レコードから出した最後のアルバム・「ノンサッチ」発売時に、テレビ上で「10年ぶりに」(←アナウンサー曰く)ライブ演奏を披露した。(曲は、アルバム最後の曲、「ブックス・アー・バーニング」)
1999年のアップル・ヴィーナス・ヴォリューム・ワン以降の作品は、バンドのレーベルであるエイプハウス(APE HOUSE)からリリースされた。
熊本市長が彼のファンであるらしく、熊本地震の時にはアンディから彼に励ましのメッセージがあったという。
2017年に、自らの曲の紹介をインタビュー形式で行う本、「コンプリケイテッド・ゲーム」が出版された。
いつの曲もひねりがある。
アイバニーズ・アーティストが有名で、前述のブックス・アー・バーニングを披露した際など、初期から後期まで長い間愛用している。ワスプ・スターやハロー・セレクション(デモ曲集)に収録されている「マイ・ブラウン・ギター」はこのギターのことを歌っていると思われる。
ファノ・ギターは彼がこのギターについての曲を書いたことでも知られているが、その後メーカーから「改良したい」と言われて回収され、まだ戻ってきていないらしい。
最初のソロ名義の活動は、ジョン・レッキーと共に1980年にそれまでのXTCの曲をダブ・リミックスして別の曲に加工した「テイク・アウェイ/ザ・ルアー・オヴ・サルヴェージ」である。XTC名義で過去にも同様の作品を発表していたが(Go+として2ndアルバムGo2に付属)、絶賛されたその作品に比べ、なぜか酷評され、なぜか日本以外ではあまり売れなかった。
前述の通り彼はデモ曲をたくさん作っており、特に1990年代後半に入ってストリングス音源を手に入れてからは、スタジオで本格的にレコーディングする前にかなりのクオリティのものを作ってしまうようになった。(アップル・ヴィーナス・ヴォリューム・ワンのデモ・ヴァージョンであるホームスパンを聞いてみればよくわかる・あまり作り込んでいないコリンの曲のデモとも対照的である)これがアレンジメント担当であったデイヴ・グレゴリー脱退の一因となった。また、カナダのファンクラブがアンディのデモ音源を集めたカセットを会員限定で発売していた。