概要
カスパー・ハウザーは、ドイツの伝説的な孤児である。
伝説といっても、『実在したかどうか不明』ということはない。
少なくとも1828年5月26日から1833年12月17日まで、バイエルン王国(現在のドイツ連邦共和国バイエルン州)で、カスパー・ハウザーと呼ばれ、カスパー・ハウザーと名乗り、複数の保護者の許を転々としていた一人の若者の存在は、公式な文書にも記録されている明白な事実である。
伝説の孤児
彼を『伝説の孤児』たらしめている理由はいくつかあるが、一つは出生と前半生が謎に包まれていること。
発見・保護されて以来、生前から死後に到るまで、カスパー・ハウザーがそもそも何処で産まれた何者で、どのようにニュルンベルクにやってきたのか、誰にも…それなりの権限を持つ人間が真剣に調査を試みたにもかかわらず…わからないままなのである。
もう一つは、バイエルン王国の人々の間で孤児として有名になりすぎたこと。
素性のわからない、そしておそらくは虐待されてきた気の毒な少年であるカスパー・ハウザーは巷間の話題をさらい、その素性の謎や特異な言行についても(誇張された要素も含め)広く世間に知れ渡っていた。
さらに重要だったのは、カスパー・ハウザーが(一応就職はしていたが)『孤児』のままこの世を去ったことである。享年21歳(ただし推定年齢)。
それまでに流布していた憶測や仮説はいずれも確証には到らず、それだけに完全に否定されることもなく語り継がれ、没後180年を超えてなお多くの研究者によって論じられている。
正体不明の存在
カスパー・ハウザーには『孤児』以外にも多くの肩書きが存在する。
曰く、『どこかの兵士がどこかの女中に産ませた私生児』
曰く、『暗い場所に閉じ込められて育った虐待児』
曰く、『実は高貴な血筋の御落胤』
曰く、『超常的な感応能力を持つ霊媒少年』
曰く、『権力を持つ名士たちの庇護を得た狡猾なペテン師』
などなど。
ただしこれらはカスパー・ハウザー本人が明言したのではなく、断片的かつ曖昧な記憶しかないカスパーの証言と、発見当時彼が何者かに持たされていた書状の内容をもとに、前後の事情と辻褄を合わせた結果の推理・憶測によるもので、保護者や研究者それぞれの立場や価値観に影響されている部分が多い。
そしてカスパー本人も(どの程度自覚していたかはさておき)、保護者が望み求めるとおりの役割を演じていた。
ある時期は見世物のように扱われ保護者の懐を潤し、また別の時期は保護者が主張する理論を実証するための被験者であった。
一応、『暗殺未遂事件の被害者』であることについてははっきりとした事実であるかに見える(なにしろ本当に死んでいる)。
しかしこれについても『世間の注目と同情を集めるためにカスパー本人が仕掛けた狂言』であり、『暗殺者は始めから存在しなかった』、『怪我が悪化し結果的に致命傷となったのは計算外の事故だった』と断定する意見もある。
意地の悪い言い方だが、実際カスパーの死に到る一連の出来事には多くの不自然な謎が残されており(そもそもカスパーを殺す、あるいは刺客を送りこむという動機のある人間がいない)、上記の説は『それらの謎の多くを合理的に説明しうる解釈』の一つではある。
漂泊の王子
早い段階から取り沙汰されていた『御落胤』説は、話題性を追求する意図で付け加えられた設定で、元々具体的な根拠はなかったと思われる。
だがカスパーが幼い頃のおぼろげな記憶を取り戻していく過程で、あるいは栄養状態が改善したカスパーの容貌によって、単なる憶測では済まされない可能性が浮上する。
今日でも研究者の間で一定の支持を得ている、『バーデン大公家の世継』説である。
カスパーの推定年齢から逆算した出生の時期、この大公国は継承問題で大きく揺れており、世継となりうる立場の人物が(わずか数年の間に不自然なほど)多数この世を去っている。
その中には『生後幾日も経っておらず、正式には命名もされていない赤子』も含まれていたのだが、この名もなき公子が『別の場所からつれてきた、病で死にかけている赤子』とすりかえられ、密かに育てられていた…
公式には死んだことになっている、しかし『何者でもない者』として生きていたこの少年こそが、後にカスパー・ハウザーと呼ばれる『伝説の孤児』の正体である…というのがこの説の骨子である。
一体誰がそんなことをするのか、そもそもそんなことが可能だったのかという議論の余地はあるものの、誰も痕跡を追えなかったカスパーの過去、本人の曖昧な記憶、なにより『なぜ命を狙われたのか』という疑問、これらを説明しうる可能性を持つ仮説ではある。
影響
カスパー・ハウザーの存在と様々な逸話は、小説や映画・あるいは音楽の世界に少なからず影響しており、また医学や心理学の分野でも重要な事例として扱われている。