本家の相次ぐ内乱
1503年、 島津氏第11代当主・島津忠昌の三男として誕生する。幼名・宮房丸。初名・忠兼、後に義忠、勝久と改名した。兄に忠治(1489年-1515年)、忠隆(1497年-1519年)。
当初は頴娃氏の名跡を継いでいた。しかし、室町時代末期の頃の島津本家は彼の父で11代目当主の忠昌が若年で継いだが、それが災いして内乱が起こった。更に周辺国の大名や豪族達の反乱もあって苦戦していた頃であった。
忠昌は1513年に内乱の苦闘の末に自刃。兄・忠治や忠隆が家督を継いだものの、結局父と同じく戦国の世と合わないことを多く行ったため、内乱は更に悪化。その上に忠治と忠隆も相次いで早世した為に勝久は1519年、兄・忠隆の死後に第14代目当主として就任した。
伊作家を頼る
しかし、急遽家督を継いだ事もあってか政権基盤は弱く、しかも忠兼の妻の弟は薩州島津家第5代当主・島津実久であった為に勝久の夫人であるのを良い事に次第に自らの権勢を更に強化させていった。
そこで忠兼は有力分家である伊作家の協力を得るために、1526年に島津忠良と対談。その結果、長男・貴久を養子に迎える事に成功。その後家督を譲り、国政を委ねて伊作へ引退した。
国政復帰と追放
だが、島津実久はこれに猛反対。翌年に清水城の貴久を急襲し、貴久を追い落とした。しかも実久は忠兼を守護に戻したのである。
鹿児島に戻った忠兼改め勝久は1529年に再び国政を執ろうとするが、豊州島津家の島津忠朝は新納忠勝・禰寝清年・肝付兼演・本田薫親・樺山善久・島津運久(忠良の養父)・島津秀久・阿多忠雄ら一族と共にこれに猛反対した。勝久は聞く耳持たずで無視した結果、結果的に一同は勝久のやり方に激怒。
1534年には家臣・川上昌久が勝久を諌めようと勝久の寵臣・末弘忠季を謀殺。勝久は禰寝重就を頼って逃亡するも、翌年に帰還して逆に昌久を死に追いやった。
あまりの暴政に勝久を擁した実久もこの行為に激高し、同年8月に川上氏と共同して勝久を攻撃した。勝久は帖佐へ逃亡。翌月に北原氏と祁答院氏の協力を得て反撃を行い、初戦は勝利するが再び敗れて様々な場所に逃亡した後に母の実家・大友家を頼り余生を過ごした。
1573年、豊後にて70歳で死去した。長男・忠康のみ島津家に戻り、次男の久考を初めとした一族は大友家に仕えた後に徳川家に仕えて生存した。