概要
葉問(イップ・マン)は葉問派詠春拳の創立者にして香港の武術家である。
葉の師匠
1893年10月1日、広東省仙山で桑畑や綿花畑、製糸工場などを経営する裕福な家の次男として生まれた。1904年、11歳の時に陳華順という武術家が葉家の土地を借りて武館を開いた縁で彼に入門する。この陳華順の師匠は「詠春拳王」と呼ばれるほどの腕前を持つ梁賛で実戦に強いことで名を馳せた人物である。しかし、葉が弟子入りしたのは陳華順が70歳を過ぎた頃であった為、2年後に脳卒中で他界した。陳がいなくなった後も葉の兄弟子で最も実力のある呉仲素のもとで修業を受けた。
香港での修行
1909年、16歳の葉問は香港へ留学。赤柱に現在もある聖士提反書院で、科学に興味を持ち外国語や数学など勉学に勤しんだ。留学の間は詠春拳の練習を中断せざるを得ない状況であったが、梁賛の実子梁壁と出会い、留学期間中も彼のもとで詠春拳を稽古する機会を得る。こうして修行と経験を積み重ね、葉は独自の体系「葉問派詠春拳」を確立するに至った。
1918年、故郷の仙山に戻る。
日本と葉問に関する誤解
葉は仙山でも有名な大富豪家の出で何不自由のない生活を送っていた上に、近郊では兄弟弟子や同門他派の武術家たちが詠春拳を教えていたため、当初自分の武館を持つつもりはなかったらしいのだが、第2次世界大戦で日本軍に家や家具を没収されて全財産を失ってしまったように映画『イップ・マン序章』では描かれている。
しかしこれは間違いであり、彼の邸は日本軍の司令部として使用はされたものの、実際には彼の財産は戦後に中国共産党によって奪われ、共産党を嫌った彼は故郷を追わる形で当時まだイギリスの植民地下にあった香港に亡命したのである。
そうして1949年に香港に移り住み、そこで本格的に人に教授するようになり、瞬く間に香港の拳法家たちの評判になった。
ある少年との出会い
1953年に葉はとある13歳の少年を弟子に入れた。彼の名は李小龍。しかし、温厚で人当たりが良い葉とは反対に小龍は短気で自己顕示欲の強い少年であった。詠春拳を使ってストリートファイトで強くなることばかり考え他流派の技でも平気で使う小龍には葉も手を焼いていたらしい。
後に小龍は新たな拳法を作り出したが彼を直接知る兄弟弟子の多くはその新たな拳法を賞賛しても、その人柄や詠春拳の技術に対しては良く思っていなかった。
即効性の高い練習には熱心だったものの、習得するのに長い期間を必要とする練習には目もくれなかった為、しょっちゅう葉から注意を受けていたのだとか。
しかし、そんな小龍のおかげで詠春拳が知れ渡ったのも事実であり、葉問は小龍を弟子として大切にしていたのも事実である。