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編集者:榊の龍
編集内容:新規記事作成

乙巳の変

飛鳥時代聖徳太子蘇我馬子により国作りがされていたが、太子死後は太子の一族の上宮王家蘇我蝦夷率いる蘇我氏との対立が表面化。皇位継承者で上宮王家は山背大兄王を、蘇我氏が古人大兄皇子を擁立し、さらに両者は対立。643年、蘇我入鹿は上宮王家の斑鳩宮を襲撃し、山背大兄王は自決。太子の血を引く上宮王家は滅亡した。

皇極天皇の下、蝦夷と入鹿の親子は政治主導権を握って専横が目立つようになり、邸宅を山城のように軍備も強化し、皇室に迫る勢いに周囲からの反感は増した。

この情勢に中臣鎌足藤原鎌足)は中大兄皇子天智天皇)と協力し、645年に飛鳥板蓋宮の大極殿にて入鹿を暗殺。蝦夷も自ら邸宅に火を放ち自害。蘇我宗家は滅亡した。このクーデター乙巳の変と呼ばれ、大化の改新と一緒にされることが多い。

改新の詔

事件直後に孝徳天皇が即位し、その下で鎌足と皇子は新体制を構築。難波へ遷都し、646年に「改新の詔」を発表した。主に四か条を基本とし、豪族が私有していた土地や領民を天皇のものとして公有する「公地公民制」、地方の令制を整備しなおした「国郡制度」、戸籍と計帳を作成して公地を公民に貸与する「班田収受法」、税制改革の「租・庸・調」である。

その他にも、陵墓作成の規制、男女差や交通整備などの習俗改革、役職の世襲禁止、八省百官の制定、冠位十二階から二十六階への改正などもされた。

新体制後

しかし、新体制は順調とはいかず、東北地方蝦夷の平定が続き、悪果した朝鮮半島情勢に介入して新羅に攻められた百済を救援するも白村江の戦いで大敗。天智天皇は外交で失敗して唐からの脅威に備え、内政面の重視に切り替えて新たな戸籍「庚午年籍」を設置し、近江令を発布。

天智帝が崩御すると弟の大海人皇子は天智帝の大友皇子弘文天皇)を壬申の乱で倒し、天武天皇が即位。より強力な中央集権的な律令体制が構築された。

評価と異説

「大化の改新」が歴史的価値で大きく評価されたのは尊皇思想が高まった幕末の頃とかなりの後世で、近年では645年から650年までとは限らず、孝徳朝・天智朝・天武朝・持統朝の頃の一連の改革も含める説が根強い。

一方で改新はなかったとする疑問視も多い。改新は『日本書紀』で最初に記されたが、改新に関連した記事の多くが時期でズレが見られ、改新関連の新法と旧法が並列する矛盾も多く、改新以後にも同様の改革がされていた可能性が大きい。

このため、「大化の改新」の実質的な改革は650年以後にされた、あるいは650年以後にも続いた改革を645年の改新に重ねてまとめた形に『日本書紀』で編纂されたとする説がある。また、藤原不比等などの後世の藤原氏が先祖の功績を大きく評価するためにしたと思われる。

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