歴史
1910年(明治43年)に阪急で初めての路線として、箕面有馬電気軌道が梅田-宝塚間、及び石橋-箕面間を開業させている。宝塚線系統の路線的には既に最初に完成していたが、当初の計画では会社名通り、有馬方面への延伸も計画されていた(後に中止)。当時は沿線にほとんど人が住んでいない状態であったが、それを逆手にとって、創始者小林一三は沿線開発を積極的に勧め、結果人口が増えて利用客も増える、という図式を作り上げ、他私鉄(東急、西武など)の模範ともなった。
一方で最初に開業したとあって、線形が悪く、最初はそれでも利用客が少なかったので対応できたが、人口が増えるにつれてそれが問題視されてくる。後に出来た神戸線や京都線(こちらの建設は大半が京阪)に比べ、車両も小型で輸送力が低く増加する乗客数に対応できず遅延が常態化、遂には庄内事件が起きることになる(詳細は検索してください)。
これをきっかけに車両の大型化が進むが、線路の悪さは現在にまで続いており、競合するJR宝塚線の普通列車にすら、急行やかつて設定した特急が大阪-宝塚間の到達時間で負けている。十三~池田間は高架化や曲線改良工事などにより、2000年以前と比べると当時よりはいくらかスピードアップしてはいるものの、宝塚駅から乗り通すのであれば阪急神戸線と今津線を乗り継いだほうが実は早い。
1997年には能勢電鉄への乗り入れを開始している。
使用車両
神戸線とは共通の形式となっている(運用は独立)。以前は2000系に対し2100系、3000系に対し3100系と区別されていたが、6000系以降は完全に共通化している。
9000系 8000系 7000系 6000系 5100系 3000系