伊福部昭
いふくべあきら
概要
少年時代にアイヌの人々と接し、彼らの生活・文化に大きな影響を受けた。
また、伊福部家は神主の家系で老子を家学としていたので、彼も東洋的な素養を身に付けることになった。
北海道帝国大学で林業を学ぶかたわら、旺盛な作曲・演奏活動を行い、エリック・サティなど、当時の日本でほとんど取り上げられることのなかった作曲家の作品を国内初演した。
大学卒業後の1935年、『日本狂詩曲』がアレクサンドル・チェレプニン賞を受賞したことをきっかけに世界的に認められ、作曲家としてのキャリアをスタートさせた。
この際、日本の音楽関係者は日本の伝統音楽の影響が濃厚な本作に拒否反応を示したが、応募規程を満たしているのに落とす理由がないと楽譜は無事にパリに送られ、結果として日本の音楽を世界に知らしめることになった。
伊福部の作品は西洋風の和声を避け『こぶし』やリズムパターンの反復といった民謡や演歌で好まれるような種類の手法を好んで使っている。こういった伊福部の作風は、何事も西洋風を至上とした国内の音楽業界からはかなりの抵抗感を持って迎えられた。
戦前・戦中は『日曜音楽家』であり、林務官として役所に勤務するかたわら管弦楽曲や協奏曲などの作曲に携わっていたが、戦後は病気で役所を辞めたことをきっかけに音楽に専念。
映画の楽曲も手掛けるようになった。
特に、1954年に公開された『ゴジラ』は、同作の大ヒットもあり、伊福部の名を世間一般に広く知らしめることとなった。
その後も東宝特撮作品とは関係が深く、1996年の『ゴジラVSデストロイア』まで数多くの楽曲を世に送り出した。
1983年には東宝特撮で使用された楽曲をまとめたメドレー「SF交響ファンタジー」を発表している。また、特撮映画以外にも映画・ドラマ・アニメ作品など数多くの作品で作曲を担当し、日本の音楽界をけん引し続けた。
余談
関連動画
日本狂詩曲
SF交響ファンタジー(第1楽章)