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新田義貞の編集履歴

2015-01-23 21:00:29 バージョン

新田義貞

にったよしさだ

鎌倉時代後期~南北朝時代の武将。各時代通じて散々言われる悲惨な人物。

鎌倉時代後期~南北朝時代武将。通称は「新田小太郎」。

足利尊氏のライバルとして扱われる事が多いが、「役者不足」扱いされるのも恒例である。


生い立ち

 鎌倉幕府の御家人である新田家に生まれる。新田家は清和源氏の一族で、源姓足利家と近縁であるが、初代の新田義重が、源頼朝が挙兵した際に、甥の足利義兼・子の山名義範・孫の里見義成が真っ先に頼朝の味方になって厚遇されたのに、本人はなかなか頼朝の味方にならなかったため冷遇されてしまい、その後も当主の失策や一族の分裂が相次ぎ、義貞が生まれた当時の新田家は、足利家と比べ物にならない弱小な家にすぎなかった。


略歴

 そんなわけで日の目を見ない義貞は、生まれた年すらはっきりしていない。古文書でも、名前を「貞義」と間違われたり、一族同士の訴訟でスルーされて幕府に調停を求められたり、割とわびしいエピソードが残っている。


 楠木正成の鎮圧に動員された時に、「病気」という事で勝手に領地に帰っているが、幕府への反逆の契機となったのは、強行に軍資金目的の徴税を迫る幕府の役人を幽閉・殺害した事による。一族をまとめて決起した義貞は、上野国の守護所を壊滅させてから周辺の武士達と合流して鎌倉へ向かう。足利高氏(尊氏)の嫡子の千寿王(義詮)や、北条家やその御内人による支配に嫌気が差していた武士達が参入した軍勢は、加速的に勢いを増していき、鎌倉を陥落させられた北条高時らは切腹し、鎌倉幕府を滅ぼした。


 だが、戦後には、後醍醐天皇へ直接、もしくは元から有力者で高い官位と官職を持つ尊氏(および代理人の千寿王)のもとへ武士達は集まり、いたたまれなくなった義貞は鎌倉を放棄して上京する。義貞と一族は建武政権で大勢が任官されるが、官位と官職は足利一族より格下であった。また、尊氏と対立していた護良親王を、後醍醐天皇の命令で捕縛している。

 護良親王が幽閉されてから、新田一族は急激に昇進した。その背景には、新たな尊氏との対抗馬を作り上げようとする後醍醐天皇の意図が絡んでいたとみられている。


 しかし、北条時行の蜂起の際に、新田一族の多くが尊氏に従い、そのうえに尊氏は義貞とその味方の所領を巻き上げてしまう。護良親王を攻撃されたどさくさ紛れに暗殺した件も加えて、とうとう(責められて鬱状態の)尊氏は討伐を受けてしまうが、義貞は討伐軍の総大将ではなく、指揮系統も混乱した討伐軍は、それでも当初は人数と官軍という立場により勝ち続けるが、結局は復帰した尊氏の指揮の前に敗北してしまう。義貞は京都に戻り、その後を追ってきた尊氏と、さらにその後を追ってきた北畠顕家と合流して、京都一帯で戦いを繰り広げる。ようやく京都を確保して、尊氏を九州へ追いやった義貞だが、畿内や西日本で人脈も人気もなかった義貞には、尊氏を追撃して息の根を止める力はなかった。


 そして尊氏は、光厳上皇の支持を得て、九州で後醍醐天皇方の勢力を倒し、京都への逆襲に向かう。その間、義貞は、護良親王派だったため後醍醐天皇に冷遇されていた赤松円心と、播磨国で戦って無駄に時間を費やしていた。結局は、尊氏方の圧倒的な大軍の前に湊川で殲滅され、楠木正成は戦死してしまうが、義貞は辛うじて脱出した。

 京都を占領されてから義貞は、尊氏と和議を結ぶという後醍醐天皇と別行動を取り、恒良親王尊良親王を奉じて北陸に向かうが、地盤を確立できずに苦戦し続けた挙句、金ヶ崎城が陥落した際に親王達を失った。その後は更に勢力も衰え、交戦中に部隊が壊滅して自害した。


 義貞の没後、新田家は相次ぐ戦死や処刑により断絶し、領地は足利家に付いていた同族の岩松家が相続した。岩松家や家臣の横瀬家は、のちに義貞の直系子孫を称している。


評価

 鎌倉幕府を打倒して、その後も困難な状況で転戦し続けた義貞だが、武将としては微妙な評価を受けている。確かに戦いは強かったが、鎌倉陥落後に大勢の武士に見限られたり、九州へ追い出した尊氏を追撃できなかったりと、戦略と政略ではとても及第点を付けられない。正成に至っては、「義貞を切り捨てて尊氏と和解しよう」と後醍醐天皇に進言したという言い伝えもあるほどで、南朝関係者を割と贔屓している「太平記」でも、武士としての生きざまはともかく、能力の方は酷評気味である。後醍醐天皇も、義貞を尊氏の対抗馬として煽り立てたはずが、尊氏を最初に追討する際にも大勢の上位者を共に派遣しているし、和議を結ぶ際にも義貞には秘密で進めていたし、義貞は体よく使われていたようにしか見えない。

 もっとも、勢力拡大に失敗が多いのは、後醍醐天皇の政治の不人気によるものも大きく、義貞だけの責任にするのは気の毒である。勢力も権威も欠けているのに、分不相応な重責を負わされた揚句に使い潰された、悲劇とも言えない悲惨な現実がそこにはあった。


 その後、朝敵とされていた義貞は言及するのもはばかられるような時勢が続き、おまけに正成のような人気もなかったため、室町時代を通じて日蔭者扱いされていた。しかし地元の上野国(今の群馬県)では、郷土の英雄として偲ばれていたらしい。

 しかし、先祖が新田一族の南朝の落人と称する松平家出身の徳川家康江戸幕府を開き……それでも義貞の人気は(元からあまりないのだから)復活しなかった。

 江戸時代後期から明治時代には、尊氏へのネガティブキャンペーンの一環で持ち上げられたが、やはり当時から評価が微妙だった義貞が完全に称賛されるのは微妙であり、戦後には存在すら急速に忘れ去られてしまった。

 ただし群馬県では、今でも郷土の英雄として知られている。


関連イラスト

【落書】 北国受難 【新田義貞】


関連タグ

武将

鎌倉時代 南北朝時代

足利尊氏 楠木正成

後醍醐天皇 護良親王

木曽義仲…「清和源氏の二番手」「東国で強く西国で弱い」「矢が眉間に命中」等の共通点がある。

上毛カルタ…「歴史に名高い~」。

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