ED78形電気機関車に関するイラストにつけられるタグ。
概要
1968年に奥羽本線福島駅~米沢駅間(板谷峠区間)及び仙山線作並駅以西を直流電化から交流電化に変更し、併せて奥羽本線米沢駅~山形駅間を新規に交流電化するに際して、いずれも勾配区間を経由する両線に適した車両の開発が必要となった。それに際し先にED93・ED75501で試用されたサイリスタ位相制御に交流回生ブレーキを組み合わせた急こう配対応交流電気機関車である。
奥羽本線米沢 - 山形間交流電化ならびに既存の直流電化区間であった福島 - 米沢・仙山線作並-山寺間の交流電化切替に伴い、平均33パーミルの急勾配を有する板谷峠の通過対策を主として本務機として開発された。
板谷峠および仙山線はは約33‰の平均勾配を有し、碓氷峠・瀬野八と並ぶ急勾配区間である。福島~米沢間は1949年に、当時交流電化は国内で実用されていなかったため直流電化とされ当初はEF15形、1951年からはEF15形に回生ブレーキを追設改造したEF16形、1964年からは抑速発電ブレーキを装備したEF64形が運用されてきた。しかし、1968年10月1日の「ヨン・サン・トウ」ダイヤ改正で奥羽本線の米沢 ~ 山形間が交流電化されるのにあわせ、同区間の交流電化への切替が決定。また交流電化試験線区で一部に直流電化区間を有した仙山線も全区間の交流電化切替が決定し、両区間で使用する機関車の開発要件として、次の条件が求められた。
・特別な運転技量を要する連続した勾配区間で使用可能なこと
・脆弱軌道で軸重制限のある仙山線への入線も可能であること
このため構造上主回路に抵抗器をもたず抵抗制御とできない交流電気機関車は発電ブレーキによる抑速運転ができないことから、開発初期より抑速ブレーキとして交流回生ブレーキ方式の採用が検討された。
そして交流回生ブレーキを搭載、軸重可変機能付の中間台車をもつ試作機関車ED94形を製造し、各種試験の後に量産の本務機仕様として補機のEF71形電気機関車とともに設計されたのが本形式である
なお、ED75・76・77・当機78よりもEF71のほうが「定格出力が大きい」ので強力で本務機、との誤解が関係者でないファン同士においてまま見られるが、EF71は粘着係数上はED78を大幅に下回る直流F機並みの牽引能力しか持たず(定格牽引力に至る前に空転して走行不能になる)、もし平坦線に降ろして運用しても、高速対応である弱め界磁を装備してないため高速領域もまるで伸びず、牽引定数も交流D級機を大幅に下回り同等の運用は不可能である。EF71はあくまでも、板谷峠の長時間回生ブレーキ運転における主電動機熱容量超過回避のために作られた「簡易型単目的補機」であることを明言しておく。1970年代に20系時代のあけぼのにおけるEF71の空転問題がが発生した際、解決策として製造された増備機はED78(12・13号機)であり、80年代半ばに牽引定数が減るまでは(EF71との重連ではなく)ED78重連固定運用がとられていたことからも真の実力は類推していただけるだろう。
また、ED94製造時からの尖鋭的な試みとして「ユニバーサルロコ」として本形式を母体に、機器の入れ替え・増設により仕様違いを製造する事は当初より計画されていた。実際にED76 500・ED75 700は耐寒構造や機体構成から本形式のバリエーションともいえる。
1967年に試作機のED94形(のち本形式901号機に編入改造)が新製され、各種試験ののち1968年に量産車両が板谷峠区間に特化したEF71形と同時に上記区間に投入、1970年に仙山線増発用に10・11号機、1980年にあけぼの増発に際しに12・13号機が製造、寝台特急から貨物列車まで幅広く運用された。国鉄分割民営化に際してはJR東日本にEF71形とともに承継。
奥羽本線の福島駅~山形駅間が山形新幹線のために改軌されると、EF71は転用が効かず全廃。(仙山線は軌道強化されていたが車体のオーバーハングが抵触するのでEF71は結局入線できなかった。入線出来たとしても陸前山王~長町間~仙台での平坦線高速貨物送り込みがあったので、高速対応である弱め界磁の装備されていない鈍重なEF71が使い物になったかは極めて怪しいが。)
一方ED78は仙山線関連のみ中心での運用となり(臨時で新庄までは入線例がある)、コンテナ・重量貨物列車を主体、臨時客レなどに晩年を過ごしたが、山形新幹線新庄開業・仙山線貨物列車の廃止などにより2000年までに全廃された。
1号機がJR東日本新幹線車両センター(宮城県宮城郡利府町)敷地内にて静態保存されている。