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安徳天皇の編集履歴2015/04/22 22:53:39 版
編集者:夏みかん
編集内容:文章のおかしいところを修正、解説を追加しました。

平安時代末期の日本の第81代天皇。諱は言仁(ときひと)。

治承2年11月12日(1178年12月22日)~寿永4年3月24日(1185年4月25日)。在位は1180年~1185年。

生涯

高倉天皇建礼門院徳子の子で、平清盛の孫にあたる。

生後間もなく皇太子になり、治承4年(1180年)にわずか2歳で即位。当時、院政を敷いた後白河法皇率いる朝廷と清盛率いる平家一門は対立状態となり、治承3年(1179年)に清盛が政変を起こして法皇を幽閉。そんな中での即位となり、高倉帝が上皇として院政を敷き、実権を握る祖父・清盛が福原(現在の神戸)に遷都した(治承3年の政変)。強引な清盛の遷都は守旧派公家の反対だけでなく一門の反対などもあって失敗し、すぐに京へ戻ることになった。

治承4年(1180年)5月、後白河法皇の第三皇子・以仁王が平家に反旗を翻した。以仁王の乱はすぐに鎮圧するものの、以仁王の発した平家追討の令旨源義賢の次男・義仲(木曽義仲)は信濃の武士を率いて挙兵し、鎌倉に拠点を置く源義朝の三男・頼朝も東国の武士の支持を得て反平家の兵を挙げた。ことを重く見た清盛は大軍を東国に派遣するが、同年10月、富士川の戦いで大敗し、源氏を中心とした勢力が次第に優勢となっていく。そんな混乱のさなか、治承5年(1181年)閏2月、清盛は謎の熱病で死亡する。指導者を失った平家の衰退は著しく、寿永2年(1182年)5月、倶利伽羅峠の戦い(越前(福井))で上洛を目指す源義仲(木曽義仲)に平維盛率いる軍が敗れると、一門は安徳帝と三種の神器を携えて都から西国へと落ち延びていくこととなった。後白河法皇の命により宇治・粟津の戦い(寿永3年(1184年))で義仲軍を降した源範頼義経兄弟の率いる軍は都落ちした平家追討するよう命を受け、西国へと攻め降っていく。安徳帝を擁する平家軍は一の谷の戦い、屋島の戦いで連敗し、瀬戸内海を彷徨い、壇ノ浦へと追い詰められていく。

寿永4年(1185年)3月、壇ノ浦において、平家軍は源義経率いる源氏軍との戦いで劣勢となり、最後を迎えようとしていた。最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げた。「私をどこへ連れて行くのか」と安徳帝が聞くと、二位尼は「これから極楽浄土へ行く」と答え、「浪の下にも都があります」と慰めると、二人は海中へ身を投じた。

数え年8歳という歴代最年少の天皇として安徳帝は崩御した。

現在、安徳帝の御陵は山口県の赤間神宮にあり、現在、天皇の慰霊祭が毎年行われている(花魁道中があるのは謎だが・・)。もともとこの社は源頼朝の命で安徳帝の怨霊鎮撫のために建てられた阿弥陀寺であった。

福岡県久留米市に総本社がある水天宮は安徳帝を祭神として祀り、子供にまつわる守護の神として全国で厚く信仰されている。

様々な作品に登場する安徳帝の髪型は、残されている肖像画から禿頭(おかっぱ)で描かれていることが多かったが、時代考証が進んだことから角髪で描かれるようになっている。

伝説

平家物語』では、船に乗る際の衣装と、入水する際の御召し物が違うため、安徳帝は平家の落人とともに生き延びたとする伝説が生まれ、各地に「安徳帝生存伝説」を分布させた。また昭和の頃に安徳帝の皇胤だと名乗る者もいた。

入水した時に神器の一つ・天叢雲剣は永遠に失われたと言われ、『源平盛衰記』によれば安徳帝はヤマタノオロチの生まれ変わりで、もともと大蛇は龍宮の竜王の弟だという。兄と喧嘩して剣と共に家出し、出雲スサノオに剣を奪われ、それ以来剣の奪い返しを続け、天皇として生まれ変わって、天下に騒乱を起こし、ついに剣は龍宮に還えったのだとしている。

『平家物語』には安徳帝ご出生の折「男の沽券にかかわるようなケアレスミス」があったと語られるため実は女帝、すなわち女子だったのではないかとされ、物語演劇では度々その点を題材にした作品がある。

その他

  • 祥興帝。南宋の皇帝で、崩御した際の様子が「8歳の幼帝が入水し、忠義な部下に抱かれて散る」など類似点が多い。そのため、我が国でも人口に膾炙しており、様々な文学の題材になることも多い。

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