安徳天皇
あんとくてんのう
生涯
生後間もなく皇太子になり、治承4年(1180年)にわずか2歳で即位。当時、院政を如いていた後白河法皇率いる朝廷と清盛率いる平家一門は対立状態となり、治承3年(1179年)に清盛が治承三年の政変を起こして法皇を幽閉。そんな中での即位となり、高倉上皇が治天の君として院政を布き、実権を握る祖父・清盛が福原(現在の神戸)に遷都した。守旧派守旧派公家だけでなく一門の反対などもあって遷都は失敗し、京に戻ったが、大きな動乱の始まりとなった。
治承4年(1180年)に安徳帝の叔父に当たる以仁王が反平家の挙兵を起こし、乱はすぐに鎮圧されたが、以仁王の令旨を掲げて信濃の源義仲(木曽義仲)や鎌倉の源頼朝など源氏も東国で次々に挙兵。源氏の勢いは平家軍を圧倒し、治承5年(1181年)には清盛が熱病により没し、義仲の軍勢が上洛を目指し、平宗盛が率いる一門は安徳帝と三種の神器を携えて都から西国へと落ち延びていくこととなった。
その後も安徳帝を奉じる平家一門は、源義経率いる討伐軍に敗れ続けて瀬戸内海を彷徨い、寿永4年(1185年)に壇ノ浦の戦いとなり、平家軍の敗北は避けられなかった。最期を覚悟した清盛の妻・二位尼は安徳帝と神器を抱き上げた。「私をどこへ連れて行くのか」と安徳帝が聞くと、二位尼は「これから極楽浄土へ行く」と答え、「浪の下にも都があります」と慰めると、二人は海中へ身を投じた。
数え年8歳という歴代最年少の天皇として安徳帝は崩御した。
現在、安徳帝の御陵は山口県の赤間神宮にあり、現在、天皇の慰霊祭が毎年行われている(花魁道中があるのは謎だが・・)。もともとこの社は源頼朝の命で安徳帝の怨霊鎮撫のために建てられた阿弥陀寺であった。
福岡県の久留米市に総本社がある水天宮は安徳帝を祭神として祀り、水や子供にまつわる守護の神として全国で厚く信仰されている。
様々な作品に登場する安徳帝の髪型は、残されている肖像画から禿頭(おかっぱ)で描かれていることが多かったが、時代考証が進んだことから角髪で描かれるようになっている。
伝説
- 『平家物語』では、船に乗る際の衣装と、入水する際の御召し物が違うため、安徳帝は平家の落人とともに生き延びたとする伝説が生まれ、各地に「安徳帝生存伝説」を分布させた。また昭和の頃に安徳帝の皇胤だと名乗る者もいた。
- 入水した時に神器の一つ・天叢雲剣は永遠に失われたと言われ、『源平盛衰記』によれば安徳帝はヤマタノオロチの生まれ変わりで、もともと大蛇は龍宮の竜王の弟だという。兄と喧嘩して剣と共に家出し、出雲でスサノオに剣を奪われ、それ以来剣の奪い返しを続け、天皇として生まれ変わって、天下に騒乱を起こし、ついに剣は龍宮に還えったのだとしている。
- 『平家物語』には安徳帝ご出生の折「男の沽券にかかわるようなケアレスミス」があったと語られるため実は女帝、すなわち女子だったのではないかとされ、物語や演劇では度々その点を題材にした作品がある。