概要
(一般に流布している古事記準拠で解説)
大国主命の指導で繁栄と平和を謳歌する葦原の中つ国(日本列島)を見た天照大神は、
「豊葦原之千秋長五百秋之水穂国は、我が御子、正勝吾勝勝速日天忍穂耳命知らす国ぞ(この葦原の中つ国は大国主ではなく、我が子の治める国である)」
と宣言して配下の神々を集めて献策させ、使者の派遣や策略による支配を推し進める。
だが、長男の天忍穂耳尊とその弟である天菩比神は失敗してしまい、臣下の天若彦は督促しに来た雉の鳴女といさかいを起こして彼女を殺害した罰として死んでしまう。対策に悩んだ大神は知恵袋でもある智の神・思兼神の提案で、建御雷神と言う強力な武神を送りこんで、
「汝が宇志波祁流葦原中国は、我が御子の知らす国ぞと言依さし賜ひき。故、汝が心は奈何に(天照大神は、貴公が不法占有している葦原の中つ国を我が子がお治めになる国であるとワシに言付けられた。譲るかどうか承ろう!)」
と圧力をかけた。大国主命が意見を求めた二人の息子のうち、長男の事代主神は「畏まりました」と快諾したが弟のタケミナカタは「アンタとオレと力比べして決めようぜ」と言い、建御雷と格闘の末に諏訪まで追い込まれて降参した。
こうして大国主は降伏し、
「唯僕が住所をば、天つ神の御子の天津日継知らしめす登陀流天の御巣如して、底津石根に宮柱布斗斯理、高天の原に氷木多迦斯理て治め賜はば、僕は百足らず八十くま手に隠りて侍ひなむ(ワシの宮殿を天津神の皇子がお住まいになる宮殿のように、地底へ届く太い柱と天まで届く城にして下されば幽界の王として引き下がりましょうぞ)。」
と申し出て地上から姿を消し、新たな神々の時代が始まった。
日本書紀では
書紀は「一書に曰く」と様々な異説が書かれており、国譲りのメンバーや方法もさまざまである。
- 葦原の中つ国を与えられるのがニニギノミコトで、勅令を出したのが高皇産霊尊(初期ではこちらがメインで皇祖扱い)。また、最初は經津主(物部氏の元祖)が平定軍指揮官だったのが「自分も勇者である」と宣言した建御雷(中臣氏の祖先)をも加えた逸話が挿入されており、書紀成立当初に権勢をふるった藤原氏の影響を匂わせる内容でもある。
- 古事記では恫喝されて出雲大社ひとつで誤魔化された弱者のようにも見える大国主は建御雷らを「お前たちこそワシの土地に来たのではないか!」と厳しく叱り飛ばし、高皇産霊尊が「貴男の御言葉は尤もです」と譲歩させられ、神殿ばかりか船や盾、はしごなど様々な代価を払う羽目になる説話が存在する。おそらく、出雲王権の巨大さを示しているのだろう。
- 平和解決(?)扱いをされている古事記とは逆に、「モノをいう草木や土石」「邪神・鬼神」を切り殺し、ないしは降伏せしめたなど戦いの描写が存在する所も存在する。
余談
- 大国主命が治めるのを「うしはく」とし、天津神側の統治を「しらす」と言う表現について「うしはくは我が物とする事、不法占拠」とし、「しらすは君民一体、天皇が民のことをお知りになる統治」と解釈する声がある(井上毅など)。
- そうした経緯から「大国主命=国賊」で、退治されて当然の独裁者呼ばわりをする解釈もある。だが、そうした敗者への思慕判官贔屓や仏教との融合、皇室(大国主命と神武天皇は縁戚)を始めとして多くの人からの尊崇が強いため、一部の信者を除いては悪人扱いされることはない。敗者を悪として裁く傾向が少ないのも、日本的な特徴といえる。
- 無論、負けた側からすれば侵略の言い訳&正当化と見られても仕方がない。実際、天照大神の振る舞いは他者のものを私物化する横暴モード全開であり、それは奇しくも出雲の沖にある島を占領しているどこかの国の行いそのものだと、ネット上ではネタにされることもしばしば…。