概要
シーアという語自体が「派」を意味するため、「シーア派」は「派の派」という重複表現となるが、日本語においては慣例上シーア派と表記される。
イスラム教の2大宗派の1つで主にイマームや血統を重視する側の方である。
スンニ派とは使用するハディース集が異なる。また歴代イマームの言行も規範の源泉とする。
イスラム教全体では1割だが、中東最大の経済大国であるイランでは最大宗派である。
アゼルバイジャンでも八割を超え、イラクでもイスラム教徒の三分の二がシーア派である。
アラビア半島ではバーレーンが人口の七割をシーア派が占める。
スンナ派に比べて宗教的なモチーフの図像表現への制限が緩く、テヘランではルーホッラー・ホメイニーやアリ―・ハーメネイ師の肖像画が普通に飾られている。
パレスチナ独立容認派もシーア派が多く、アサド政権やマリキ政権を助けているのはロシアとシーア派である。
一方で、サウジアラビアを始めとするスンナ派の国では弾圧の対象になっている。
教義
スンニ派でもカリフの資格にクライシュ族の血を引くことを求めるが、シーア派ではムハンマドの娘婿アリーの血統であることが重要視された。
シーア派の伝承においては、ムハンマドがアリーを自身の後継の最高指導者に選んだと伝わっている。
アリーとムハンマドの娘ファーティマの息子たちが次のイマームとなり、以後もアリーの血を引く人が指導者の役割を担った。
アリーの血を引く歴代イマームのうち、どの血統のどこまでを正式なイマームと認めるかによって、シーア派はさらに複数の派に分かれている。
信徒数において最大なのがイランの国教となっている「十二イマーム派」である。
血統を重視するのは、教義よりも血統を上に置いているからではなく、上記のように伝承されたムハンマドの言行によるものである。
スンニ派のハディース集に収録されたハディース(伝承)からは引き出せないが、シーア派も聖典クルアーンとムハンマドの意図に従おうとする宗派である事に変わりない。
教義の実行が厳格か緩いかはスンニ派同様、時代、地域、個人による。
厳格な例としてはイランにおける同性愛者の処刑を挙げることができる。
しかし、一般にスンナ派に比べれば神秘主義的傾向が強く、宗教的存在(預言者など)を絵画にすることへのタブーがスンナ派ほど厳格ではなく、イランでは公の場に多くの聖者、イマームや宗教指導者の肖像が掲げられていることにも象徴されるように、聖者信仰は同一地域のスンニ派に比べ図像表現には寛大である(ただ、偶像崇拝は禁忌なため、そうした絵や描かれた相手を崇拝しているわけではない)
また、イスラム教において信仰の根幹とされている教義はスンナ派が六信五行であるのに対し、シーア派は五信十行となっている。
因みにISILはスンナ派なのでシーア派の戦闘員はゼロである。(詳しくはサウジアラビアのワッハーブ派の記事を参考に。)
むしろアラウィー派同様「ラーフィダ(多神教徒)」扱いされ迫害、殺害の対象である。
余談
シーア派の祖となるイマーム(指導者)はムハンマドの娘婿で従弟・養子のアリーを祖とし、以後もムハンマドおよびアリーの直系子孫から出ていた。
ムハンマドを輩出した氏族であるハーシム家からは、上記初期シーア派イマームの家系の他、初期8世紀から13世紀にかけてイスラム圏に広がったイスラム帝国のアッバース朝、そして同じくムハンマドの直系子孫(上記イマームの家系とは始祖が兄弟同士で共にアリーの息子)である聖地メッカのシャリーフの一族が輩出された。
中世以後長らくイスラム圏を支配したオスマン帝国が倒れると、メッカ・ハーシム家の嫡流でシャリーフであったフサイン・イブン・アリーは同地を中心としたヒジャーズ王国を建国。更にフサイン国王の三人の息子がそれぞれヒジャーズ・ヨルダン・イラクの王家の祖となった。イラクにハーシム系の王室が立てられたのはアッバース朝以来となる。
しかし、ヒジャーズ王国は後に新たに勃興したワッハーブ派のサウード家によって滅ぼされる形となり(これにより新たにサウジアラビアが建国)、イラクではクーデターで王族が虐殺され共和化してしまった。
現在残るヨルダン王家は国王の懸命な外交政策や気さくな人柄もあり現在もハーシム家の支持が高いが、ヨルダン自体はスンニ派が多数を占めるという何とも皮肉な結果となっている。
主なシーア派の国
関連タグ
イラン…シーア派の総本山
サウジアラビア…スンナ派の総本山
ルーホッラー・ホメイニー…イスラム革命の創始者。