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インパール戦争

いんぱーるせんそう

インパール戦争とは、大東亜戦争中の戦闘の1つで、大日本帝国陸軍とインド国民軍とで行われた共同作戦である『インパール作戦』のことであり、インドではこの呼称で呼ばれる。

戦争目的

日本軍・インド国民軍インパールの攻略・占領による、インドのイギリスの植民地支配からの解放・独立及び、 後方撹乱と援蒋ルートの遮断。
イギリス軍・イギリス領インド帝国軍日本軍・インド国民軍のインパール侵攻の阻止と、植民地の防衛・確保。

概要

1944年(昭和19年)3月から7月まで行われた、インドインパール攻略作戦(インパール作戦)であり、この戦いは日印連合軍による“対英独立戦争”とインドでは特に明確に位置づけられており、イギリス支配下のインドの独立運動を支援することによってインド内部を混乱させ、イギリスをはじめとする連合国軍の後方戦略を撹乱する目的も含まれていたことから、大日本帝国陸軍インド国民軍との共同作戦で行われた。『インド独立戦争』『インド解放戦争』とも呼ばれている。

経緯

ムガル帝国の衰退後、イギリスは徐々にインドへの干渉と支配を強め、ライバルのフランスに勝利した19世紀以降は、実質的にインドを征服した。以後、インドは約100余年もの間、イギリスによる植民地支配を受けた。

イギリス支配下のインドでは飢饉が頻発した。イギリスによる経済的搾取に加え、在来の産業が衰退した一方で、これに代わる産業が発展しなかったことが、その理由である。1854年から1901年までの間に、延べ人数にして2800万人以上ものインド人餓死との推計があるほどの過酷な支配であり、これに反発するインド人も多かった。

そのためか、日本軍がイギリス植民地であったマレー半島シンガポールビルマのイギリス軍を破竹の勢いで撃破し、歴史的なマレー海戦の完全勝利に、インド国民は歓喜していた。

インドの独立をずっと訴え続けていたスバス・チャンドラ・ボースは、日本軍に協力していたビハリー・ボースモハンシン大尉の強い要請から日本に受け入れられ、東條英機首相から無条件援助の確証を得て、1943年10月21日『自由インド仮政府』を樹立、日本政府が同年23日に正式に承認した。 同年24日に正式にアメリカイギリスへ宣戦布告を宣言し、日本と共に戦うこととなった。

彼らの計画は、日本がインドに侵攻してインド独立を支援する事によって、イギリスの戦力を割き、さらにエジプトに侵攻しているドイツと連絡する事によって、連合国を分断する事が出来るというものである。

これに類似した事は『太平洋戦争は無謀な戦争だったのか』という翻訳書で訳者が

「私は、インド洋作戦こそが、第二段作戦の中心であり、それによって英本国への豪・ 印からの原料・食料などの補給遮断、スエズ英軍への米からの武器補給遮断、カルカッタ−アッサムからの 重慶への米補給路の遮断などの莫大な効果をあげることができる、と結論付けていた。」

と語っている。

このインドへの侵攻の基本構想は開戦直前の『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』に明記されていると言う。すなわち海軍ハワイ作戦ミッドウェー海戦などは、この基本構想に全く反するものであり、この作戦こそが基本構想にかなったものであった。

日本側の指揮官は、第15軍司令官の牟田口廉也中将で、連合国の中華民国への支援ルート(援蒋ルート)の遮断を戦略目的としてビルマから山脈を越えてインド北東部の都市インパールに攻め入るというものだった。しかし計画の立案時点から、特に補給などに問題がある、として反対意見が出た。実際、当時の第15軍の輸送力では、作戦に必要な物資の約1割程度しか補給できないと試算されていた。しかし、反対する者は次々と更迭され、作戦は半ば強引に実施されることになった。

インド国民軍も1944年にはビルマに移動し、「自由インド」「インド解放」をスローガンに、日本軍とともにインパール作戦に参加した。当初は日本軍が快進撃し、南から第33師団「弓」がインパールに迫り、これに呼応し東から第15師団「祭」がインパールを圧迫、そして一番北側に位置していた第31師団「烈」が、アッサム州(現・ナガランド州)のコヒマを占領し進軍を続けた。

しかし、ジャングルや山を越えていく進軍は困難を極め、牟田口中将が考案した『ジンギスカン作戦』(牛に荷物を運ばせあとで食糧にする)も牛が途中で逃げたり川に落ちるなどして、失敗してしまう。

また、制空権が完全にイギリス軍の手中にあったことは、日本軍の意図を狂わせる大きな要因になった。日本軍はイギリス軍を分断、包囲し、地上からの補給路を断った。だが、制空権を握るイギリス軍は、空中からの補給によって戦線を維持し続けた。一方の日本軍は補給線が伸びきり、前線にはほとんど物資が届かない状態となり、次第に武器弾薬、食料が欠乏し、部隊の戦闘力は大きく落ちていった。

4月に入ると現地は雨期になり、前線が飢えと雨と伝染病で過酷な状況となってしまい、前線の指揮官の1人第31師団長・佐藤幸徳陸軍中将はあまりの惨状をみかね撤退を進言するも聞き入れられず、ついに5月末独断で撤退を決意。

「善戦敢闘六十日におよび人間に許されたる最大の忍耐を経てしかも刀折れ矢尽きたり。いずれの日にか再び来たって英霊に託びん。これを見て泣かざるものは人にあらず」

と司令部に返電し、自身への処罰を覚悟で退却させてしまう。

7月3日、作戦中止が正式に決定し、作戦は失敗に終わった。日本軍は3万人を超える犠牲者を出して敗走、インド国民軍にも8千人の犠牲者が出た。この作戦の後、日本軍と協力関係にあったアウン・サン将軍率いるビルマ解放軍は、やむを得ず連合国側に寝返った。インド国民軍もタイまで撤退を余儀なくされ、そこで第二次大戦の終結にともなって、イギリス軍に降伏した。指導者スバス・チャンドラ・ボースは、次はソビエト連合の支援を得てインド独立運動を継続しようとしたが、飛行機事故で死亡した。

評価

純軍事的には、作戦は完全な失敗に終わった。

牟田口中将は、独断で退却した佐藤中将をのちに更迭し、同様に撤退を進言した第33師団長柳田元三陸軍中将・第15師団長山内正文陸軍中将を更迭。山内は現地でマラリアに罹患しており、牟田口中将らへの恨みを残しながら日本に帰れず死亡したと伝えられている。戦史の常識では、無謀な作戦から逃亡した佐藤中将の行動を、多くの部下を飢餓から救った人道的指揮官として、牟田口中将は無謀な作戦を強引に発動した軍人として非難しているが、佐藤師団の撤退によって彼自身の師団は救われたものの、置き去りにされた他の師団は佐藤師団が抜けたことでさらに苦しい状況になり、多数の被害を出すに至ったという一面があるのも事実である。

英国公刊戦史では、むしろ途中撤退した佐藤幸徳中将の行動が非難されており、

「あとひと押しで日本の勝利はあったのであって、英国は窮地に陥っていた」

と語られている。(ただ、これはイギリス軍によくある、相手軍を過大評価することによる間接的な自画自賛、という可能性もある)

だが、このような事態に至った原因は、作戦計画自体にあったことは間違いない。特に、補給の問題は現場を直撃した。

インパール周辺で戦闘を行う部隊にすら十分な物資を補給できない当時の日本軍の輸送力では、占領地を維持して連合国を分断し続けることは不可能なことであった。増してや、エジプトに侵攻したドイツ軍と連携するなど、夢のまた夢であった。

そもそも、上記の『対米英蘭蒋戦争終末に関する腹案』なども、その計画は構想というより妄想に近いものであったと言って良い。この『腹案』には、ヨーロッパの戦場で同盟国ナチス・ドイツがイギリスを屈服させる、という前提があった。すなわち、最終的にはイギリスの屈服はドイツ頼みで、ドイツの動向に決定的に左右される性格を持っていた。その頼みのドイツはというと、インパール戦争が開始された時点で、エジプトから撤退寸前、本国も西からアメリカ・イギリス、東からソビエト連邦の反撃によって戦況は劣勢に傾いており、この事実から見ても、『腹案』の構想は破綻していた。

軍事的には失敗した一方、政治的には戦後までつながる大きな影響があった。

第二次大戦後、イギリスはインド国民軍の将兵をイギリス国王に対する反逆罪で訴追しようとした。だが軍事裁判がきっかけとなってインド民衆が決起し、インド全土で独立運動が起こり、最終的にインドは独立へと繋がっていく。

最終的にインド独立を成し遂げたのはガンジー率いる国民議会派ということになっているが、このインパール戦争と、そこで戦った日本軍・インド国民軍、そしてインド国民軍を率いたチャンドラ・ボースが、インドの独立に大きな影響を与えたことは留意しなければならない。

実際に第14軍司令官としてインパールのイギリス軍を指揮したウィリアム・スリム中将は、「日本軍の指揮官は我々をわざと勝たせた」と証言し、ロンドン大学教授のエリック・ホブズボーム博士は、インドの独立後に、

「インドの独立は、ガンジーやネールが率いた国民会議派が展開した非暴力の独立運動に依るものでは無く、日本軍とチャンドラ・ボースが率いるインド国民軍(INA)が協同して、ビルマ(現ミャンマー)を経由し、インドへ進攻したインパール作戦に依ってもたらされたものである。」

と語っている。

逸話

  • この戦いは本来インドの独立のための戦いであり、インド国民軍を前に立てて、自国軍主力の犠牲を少なくするのが自然であるが、日本軍はむしろ戦いの先頭に立ち、インド兵を後ろに置いてインドを目指し、下級将校も自分の部隊に配属された少数のインド兵を温存していた。
  • この戦いは、フランスで起こったワーテルローの戦いに匹敵する歴史的規模の凄絶な陸戦であったが、それにもかかわらず、不思議なことにイギリスはこの戦いの勝利を誇ることをせず、戦いの後にインドのデリーで企画されていた戦勝記念式典を差し止めている。
  • インパールで日本軍と戦ったあと、インド各地で起きた独立運動に対するイギリス駐留軍の対応は、それまでの帝国主義国家の植民地対応と比べると、あまりにも手ぬるいものとなっており、やる気がまるで感じられない状態であった。マハトマ・ガンディーらの非暴力の行進に対しても、ほとんど発砲もしないで通しており、以前のようにデモ集団の真ん中に機関銃を撃ち込むようなことはしなかった。さらにヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間で暴動がおこり、パキスタンが分離独立しても態度を変えなかった。また同じ風景はパレスチナでも見られた
  • 戦後の東京裁判極東国際軍事裁判)で、イギリスはインドがラダ・ビノード・パール判事を送り、パール判事が日本擁護の判決付帯書を書くことについても口を出していない。
  • 現地インパールの人々は、マニプール州2926高地にある日本軍が死屍累々の骸をさらした激戦地の一つである丘をレッド・ヒルと呼び、この地に日本兵の慰霊碑を建立した。慰霊碑を建立したモヘンドロ・シンハ村長は 「われわれは日本兵がインドの独立のために命をかけて戦ってくれたことをよく知っていました。だから日本兵に衣服や食糧を喜んで供給したのです。ところが、イギリス軍に知られ妨害されるようになりました。日本軍は飢餓に追いこまれながらも、勇敢に戦い、そして戦死していきました。この勇ましい行動は、すべてインド解放のためであったのです!私たちはいつまでもこの勇戦を後世まで伝えたいと思い、慰霊碑を建立したのです。この塔は日本軍人へのお礼と、独立インドのシンボルとしたいのです。そのため村民で毎年慰霊祭を行っています」 と述べている。
  • 同じく激戦地だったコヒマでは、日本軍が去った後にコヒマに群生しはじめた『日本兵の花』と名付けられ、日本軍によって仕留められたイギリス軍のM3グラント戦車が「勇気のシンボル」として保存されている。

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