ジャック・チャーチル
じゃっくちゃーちる
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ジョン・マルコム・ソープ・フレミング・チャーチル(John Malcolm Thorpe Fleming Churchill)
イギリス陸軍の軍人。ファイアーエムブレムの世界から迷いこんできた男かも知れない。
渾名は「ファイティング・ジャック」、「マッド・ジャック」。
経歴
1926年、士官学校を卒業、ビルマで軍務に就く。この頃、無線を習うために2,000km離れたカルカッタ(インド)まで自転車で行った。
1936年、退役し新聞編集者となった。
1939年、第二次世界大戦が始まると軍に復帰。
当初配属されたのはフランス周辺で、宣戦布告されながら全く戦闘が無い「ザ・ファニー・ウォー(奇妙な戦争)」の期間であった。つまらないのでフィンランド義勇軍に志願するが、義勇軍自体が中止になった。
暇なのでバグパイプの練習に没頭していたところ、1940年5月10日、ドイツ軍がベルギーを通ってフランスに侵攻を始めた。
イギリス軍のダンケルク撤退までの間に彼の大隊は大きな戦果を残したが、彼自身弓矢を使ってドイツ軍の下士官を倒し、第二次世界大戦中唯一の「弓矢によるスコア」を記録した。
イングランドへ撤退後、新設のコマンド部隊に志願。
1941年12月27日、ボクセイ島(ノルウェー)のドイツ軍駐屯部隊を奇襲する「アーチェリー作戦」に参加し、上陸に際しバグパイプを演奏した後、ドイツ軍に手榴弾を投げつけた。突撃は成功し、コマンド第2部隊隊長に昇格する。
1943年7月10日、シチリア島への上陸作戦(ハスキー作戦)で東岸のカターニアに上陸した際には、クレイモア、ロングボウ、バグパイプは彼の代名詞となっていた。
9月9日、イタリア西岸のサレルノへの上陸作戦(アヴァランチ作戦)では42名のドイツ軍捕虜を獲得し、ナポレオン戦争時代に倣って負傷兵を乗せた手押し車を捕虜に引かせた。
1944年5月、対独パルチザンとコマンド(40人)を率いてブラチ島(ユーゴスラビア)に上陸。ドイツ軍の激しい砲撃にパルチザンが脱落したためコマンド部隊のみで翌日突撃を敢行。バグパイプで部隊を指揮中、手榴弾で吹き飛ばされ意識を失って捕虜となり、ベルリンの捕虜収容所に送られた。
収容所からの脱走は2回目に成功し、イギリス軍に復帰後ビルマ戦線に転属するが、インドに到着する頃には日本も降伏したため、彼は「アメ公が余計なことをしなければあと10年は戦争ができた」と嘆いた。
サーフィンを趣味とし、イギリスは外洋でのサーフィンがむずかしいため、セヴァーン川(イギリス)の海嘯(河口に入る潮波が垂直壁となって河を逆流する現象)を利用したサーフィンを始めた。
1959年に陸軍を退役。
1996年3月8日、サリー州で死去。享年89歳。
座右の銘
「士官たるもの、剣を持たずして戦場に赴くべきではない」