概要
高校は、野球の名門校PL学園高校に進学。3年の時に第64回選抜高等学校野球大会に出場し、8強入りを果たす。その後、東洋大学に進学し、ショートのポジションを不動のものにし、同学年で同ポジションであった青山学院大学の井口資仁(現千葉ロッテマリーンズ)と並び「双璧」と呼ばれた。東洋大学在籍時の1996年、アトランタオリンピックに出場したが、今岡、井口、当時社会人野球の日本生命に所属していた福留孝介(現阪神タイガース)と3人のショートが選出されており、今岡は井口にショートのポジションを譲り、セカンドを守っていた。(福留はサード)
1996年のプロ野球ドラフト会議前に阪神タイガースを逆指名し、阪神に入団。1年目の1997年はセカンド、2年目の1998年はショートとしてレギュラーに定着。
2002年に星野仙一が阪神の監督に就任すると春季キャンプからの活躍が認められ、二塁手のレギュラーを奪取。故障した赤星憲広に代わって1番打者に固定され、自己最高を更新する打率.317, 15本塁打を記録する。
2003年も1番として起用され、打率.340で首位打者のタイトルを獲得[4]。二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞するなど、1985年以来のリーグ優勝に貢献した。同年は得点圏打率.428を残したほか、年間初回先頭打者本塁打を7本放ち(うち5本は初球)、2試合連続で先頭打者初球本塁打も記録した。また、同年でのオールスターゲームでのファン投票で歴代最多の1,588,712票を獲得している
2005年には、当時の監督岡田彰布の意向でサードにコンバートし、5番打者に定着。同年の3番アンディ・シーツ、4番金本知憲、5番今岡らによるクリーンナップ3人の合計357打点は球団史上最高記録である。阪神はこの年、リーグ優勝を果たした。
2006年以降は故障が相次ぎ、代打での出場が多くなった。体への負担を軽減させるためにこれまでファーストを守っていた新井貴浩をサードに変え、今岡をファーストで使ったりしたが、不振から脱却できずに2009年に戦力外通告を受けた。
2010年、大学時代のライバルであった井口が所属する千葉ロッテマリーンズに入団。指名打者や代打で出場したが、2012年に現役を引退した。
引退後はしばらく野球解説者、タレントとして活動し、2016年シーズン以降は阪神の二軍打撃兼野手総合コーチに。
2017年からの登録名は今岡真訪。