経歴
1977年4月26日生まれ、鹿児島県大崎町出身。
大阪・PL学園時代は高校No.1スラッガーと呼ばれていた。
1995年のドラフトでは7球団が1位指名し、大阪近鉄バファローズが交渉権を獲得するが、中日ドラゴンズもしくは読売ジャイアンツ入りを目指していたため入団を拒否(当時の近鉄監督・佐々木恭介はドラフトの時の『ヨッシャー』の掛け声で話題となり、これが愛称に。その後2002年に中日の一軍打撃コーチに就任し福留を指導している)。
社会人野球・日本生命に就職後、当時史上最年少でアトランタオリンピック野球日本代表(当時はオールアマチュアでプロは出場できなかった。)に選ばれ銀メダル獲得に貢献する。
中日時代
1998年オフのドラフト会議にて、中日ドラゴンズを逆指名して1位で入団、背番号は「1」。
入団当時は遊撃手を務めていた。当時の星野仙一監督が積極的にスタメン起用し、福留もそれに答えたが、守備に難があり打撃も確実性に欠けていた。2000年に三塁手へコンバートされるが守備難は相変わらず。2002年に外野手に再コンバートされると、ようやく守備も安定した。
打撃では松井秀喜の三冠王を阻止する首位打者を獲得するなど、安定感も増した。2007年オフにFAでメジャーに移籍するまで、ドラゴンズの中軸としてプレーしチームの3回の優勝に貢献した。
MLB時代
2008年からはシカゴ・カブスでプレー。この年は打率.257と苦戦。
翌2009年は打率.259、2010年は.263。特に2009年は日本時代あまり守らなかった中堅守の守備に苦労していた。
2011年は前年より好調なバッティングを維持していたが、7月28日にクリーブランド・インディアンスへトレード移籍。この年は打率を除いてメジャー移籍後最低の成績に終わる。
オフにシカゴ・ホワイトソックスと契約するがケガと不振で解雇。後にニューヨーク・ヤンキースとマイナー契約を結ぶがメジャー昇格はならず、9月に解雇された。
阪神時代
2012年オフに阪神タイガースへ移籍、翌2013年に正式契約、背番号は「8」。このシーズンは左足の不調で振るわなかったが、2014・2015年に亘りサヨナラホームランを3発決め、2年通算でも29発のホームランを決めている。
2016年には2003年以来となる自身二度目のサイクルヒットを達成し、また6月にはNPB・MLB通算2000本安打を達成し名球会入り。2017・2018年は球団史上最年長ながらチームキャプテンを務めた。
2019年の5月5日に三嶋一輝から放ったホームランは、チームの3連勝を呼び込む劇的なサヨナラ弾だった。しかもこの一発はセントラルリーグ通算5万号となるメモリアルアーチで、記憶にも記録にも残るものであった。2020年はついにNPBの現役最年長選手となったが、極度の打撃不振で出番が減少。シーズン終了後タイガースを退団し、古巣・ドラゴンズへの復帰が決まった。
中日復帰後
2021年のキャンプでは読谷スタートであったが、復調した打撃と選球眼を武器に1軍へ復帰した。オープン戦では主に代打として登場しホームランを放つなど、若手に負けない打撃力を披露。4月3日には5番ライトとしてスタメン且つクリーンナップで登場。その後も休み休みスタメンで続け、終わってみればホームラン4発に失策0、出塁率が打率を1割近く上回るという年齢に対して文句なく、むしろ十分な結果となりドラゴンズファンを魅了した。
2022年は成績が低迷し、9月に今季限りでの現役引退を発表。
福留の引退により西暦1000年代入団、20世紀中に一軍公式戦に出場したNPB選手は全員引退した(20世紀括りでは2000年入団で2024年も現役の中島宏之がいる)。
人物
- 若手時代は広角打法を武器に、コンスタントに打率3割と20本塁打以上を記録。2004年には4番にも座った。守備も前述のように内野手時代は不安定だったが、外野手としては強肩を武器に堅守を支えた。メジャー移籍後はヤンキースでは一塁手を守ることもあった。
- カブス時代の2008年に「It's gonna happen」(カブスファンの常套句。訳は「何かが起こるぞ」、「ついにその時が来た」)を機械翻訳した「偶然だぞ」のボードが掲げられたことがある。
- そんなMLB時代は、ユニフォームの背ネームにあるローマ字表記の「FUKUDOME」が、放送禁止用語を連想させるという懸念があった。
- プロ野球界屈指の銭闘員。かつて「誠意は言葉より金額」という迷言を残す、日本球界復帰の際に3年15億の報道が出される(これによりはませんを中心とした2ちゃんねらー、なんJ民の顰蹙を買っている)など、その銭闘能力(?)はトップレベル。
- 星野仙一が中日ドラゴンズの監督をしていた時に、ドラゴンズでプレーした最後の現役選手。