概要
2000年のシドニー五輪までは「全日本」だったが、それ以降はオフィシャルサイト等の公式な発表では、過去に遡って全て「野球日本代表」との表記で統一。
来歴
日本の野球界はプロ野球や学生野球(社会人野球・大学野球等)がそれぞれ複雑に絡み合って発展してきこともあって学生選抜、職業野球選抜という形だった。
1954年、アジア野球選手権開催にあたり、アマチュア球界で代表チーム編成のため、 日本学生野球協会と日本社会人野球協会(現日本野球連盟=JABA)が共同で「日本アマチュア野球協会」を結成する。ここから代表チームが編成される。これが野球日本代表の最初だが、日本バレーボール協会や日本サッカー協会のようなアマチュア野球の統括組織にしようとする動きに日本学生野球協会が反発。1966年に学生協会が脱退し空中分解してしまう。
しかし国際試合に代表を送りこむためのの組織は必要だったことから学生側・社会人側の両協会の付属機関として1967年、「日本アマチュア野球国際委員会」を設立する。
この委員会の下で、1972年世界選手権初出場、1973年インターコンチネンタルカップ優勝、1980年世界選手権日本開催、1987年アジア野球選手権日本開催、公開競技として1984年ロサンゼルス、1988年ソウルの両五輪でそれぞれ金メダル・銀メダルを獲得する。
1992年バルセロナオリンピックから正式競技となり、国際野球連盟(IBAF)にアマチュア球界で統合して加盟する必要が出てきた。このため「日本アマチュア野球国際委員会」を発展的解消、1990年「全日本アマチュア野球連盟」(BFJ)を結成し、この組織がIBAF、アジア野球連盟(BFA)、日本オリンピック委員会(JOC)に加盟する。以後、野球日本代表チームはこのBFJが編成する。
オールアマチュアでバルセロナ五輪は銅、1996年アトランタ五輪は銀、1998年のバンコクアジア競技大会(1994年の広島大会から正式競技化)で準優勝を果たす。
一方で1998年から国際大会へのプロの参加を認めたため、1999年のシドニー五輪予選にはBFJがプロ野球側に要請する形でプロ野球選手の初の国際大会出場するが、予選・本選共にオールプロの韓国に敗退しシドニー五輪4位で終わる。
この為中途半端でメダル獲得不能と判断、2004年アテネオリンピックはオールプロで臨むことを決定。代表の編成権もBFJから全日本野球会議に移行、2001年から日本代表チームを送り出すことになった。それでもプロの力を以てしても世界の舞台で勝つのは容易ではなく不振が続いた。
2003年アテネ五輪では長嶋茂雄監督のもとで挑むつもりが大会前に脳梗塞で倒れ、ヘッドコーチであった中畑清が指揮を執る。本線ではオーストラリアに準決勝で敗れ銅メダル。
最後のオリンピックとなった北京五輪では、星野仙一監督の下で当初から士気や選手のコンディションの低さが指摘されたこと、偏った起用法で選手を使い潰したことから、3位決定戦でもアメリカに敗れ、五輪後も悪影響が出てしまった。
2005年からはアメリカ・メジャーリーグベースボール(MLB)機構およびメジャーリーグ選手会が主催するワールド・ベースボール・クラシック(WBC)も開催され、2006年3月に開催された第1回大会は王貞治監督の元で、2009年3月に開催された第2回大会では原辰徳監督で優勝するが問題も代表監督がNPBの球団監督との兼任であったため負担が大きいこと、代表候補選手の辞退者が相次ぐなど問題が起きた。
2011年10月、NPBのオーナー会議で日本代表チームを常設化し、「侍ジャパン」と呼称することを決定。
2013年5月16日、日本野球機構(NPB)と全日本野球協会(BFJ)は記者会見を開き、「野球日本代表マーケティング委員会(JMBC)」の設立、プロ・アマの連携を強化することになった。
現在は年代別代表チームとして「社会人代表」「U-23(旧U-21)代表」「大学代表」「U-18代表」「U-15代表(旧U-16代表」「U-12代表」「女子代表(マドンナジャパン)」も結成されている。
歴代の日本代表
記事のある人物中心。
監督
中畑清 星野仙一 王貞治 原辰徳 小久保裕紀 稲葉篤紀 栗山英樹
歴代選手
男子
アマチュアで参加
和田豊 広沢克己 野茂英雄 古田敦也 笘篠賢治 杉浦正則 小久保裕紀 福留孝介 松中信彦 今岡誠 井口忠仁 渡辺俊介 石川雅規 杉内俊哉 阿部慎之助 廣瀬純 赤星憲広 など