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鬼切安綱の編集履歴

2018-10-18 22:33:44 バージョン

鬼切安綱

おにきりやすつな

日本刀(太刀)の一つで、鬼を切ったとされることから「鬼切丸」の異名を持ち、源氏の宝刀として振るわれた。 現在は京都北天満宮に安置されているが、これが髭切か否かは定かでない。

鬼切安綱とは、日本刀(太刀)の一種である。


概説

製造時期は平安時代とされる。

長さ2尺7寸9分2厘、反り1寸2分3厘、元幅1寸7厘、刃紋はのたれ乱れ。

かつては旧国宝指定だったが、現在は指定重要文化財となっている。


京都北野天満宮の伝来書によると源頼光所持の伝説を有し、斯波高経の甥斯波兼頼の手に渡り、子孫である最上氏へ伝わったとされる。

戦国時代を経て江戸時代に最上氏が改易され、大名から旗本に転落しても伝来した。

明治元年(1868年)に手放され質屋へと流れ、明治13年(1880年)に京都府、大阪府及び滋賀県令籠手田安定らの有志が取り戻し、最上家へ返還した。

最上氏は再び流出することを恐れ北野天満宮に奉納したという。


太平記の“鬼切”

田村麻呂から頼光へ

『太平記』に語られる鬼切の由緒が鬼切安綱のものとされる。

伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱が鍛えた太刀で、時の将軍坂上田村麻呂に献上された。

田村麻呂が鈴鹿御前鈴鹿山で剣合わせをしたときの太刀である。そののち田村麻呂が伊勢神宮に奉納した。


源頼光が伊勢神宮に参拝した際に源氏累代の太刀とするようお告げがあり、伊勢神宮から賜ったという。


源氏累代の太刀

大和国宇陀郡の大森に夜な夜な化物が出没するので、頼光は家来の渡辺綱はこの太刀で鬼の手を切った。

鬼は手を取り返そうと頼光の母に化けて、頼光の家の門を叩いた。

頼光が切り取った手を見せたところ、それを奪い右肘に挿し合わせ、二丈ばかりの身丈の牛鬼となって頼光に走りかかった。

頼光は件の太刀を抜いて牛鬼の首を切り落とした。


この太刀は多田満仲(源満仲)の手に渡って信濃国戸蔵山で鬼を切った。

その時に鬼切と名付けられたという。


新田義貞の佩刀

新田義貞は鬼丸とともに、この鬼切も佩いたという。

鎌倉幕府滅亡後、新田義貞が鬼丸国綱とともに纂奪するも、斯波高経に討たれると高経が所有するようになる。

足利尊氏は、源氏重代の名刀を高経が持っていると知り引き渡しを求めたが、高経は士族の高さでは足柄にも負けない自負があったため、頑として譲らず尊氏を憤慨させたという。


『髭切』同一説

鬼切安綱は髭切と同一視、もしくは髭切のモデルとしてその伝承を内包するとの説がある。

これは『太平記』での伝承と、『剣巻』などでの伝承が類似するためである。

ただし、剣巻では髭切と膝丸は満仲が異国の鍛冶に打たせたとあり、太平記の安綱の記述と矛盾点がある。

さらに髭切は源頼朝の法華堂に奉納されていたが鎌倉幕府滅亡と共に焼失したとされる。そのため鬼切安綱と髭切は別の太刀とする説もある。


なお、一般的には鬼切安綱は髭切として扱われることが多い。

江戸時代に流布した酒呑童子絵詞では、太平記での記述のうち田村麻呂の由来は血吸(童子切)に、綱の伝承は鬼切(髭切)に分解、再構築される傾向があるため、江戸時代には別々の太刀として流布されていたようである


『童子切安綱』双剣説

童子切安綱とともに打たれた太刀という説。

ただし、どの文献から引用されたのかなど不明な点が多い。


『童子切安綱』すり替え説

酒呑童子を切った太刀に言及する最古の刀剣書は室町時代の『能阿弥本』とされる。

室町末期に足利義輝織田信長豊臣秀吉と伝わった安綱作の太刀を源氏重代の太刀とするため、酒呑童子伝承と結びつけて由緒を付加した。

そのため最上氏の元で源氏重代の太刀として伝わっていた鬼切安綱は、豊臣時代の童子切安綱の登場により国綱に改銘されたとする説。

ただし、酒呑童子を切ったとされる太刀は複数伝わるためすり替え説自体の真偽は不明。


関連タグ

日本刀 太刀

鬼切丸 髭切 膝丸

童子切安綱 鬼丸国綱

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