鬼切安綱
おにきりやすつな
概説
製造時期は平安時代とされる。
長さ2尺7寸9分2厘、反り1寸2分3厘、元幅1寸7厘、刃紋はのたれ乱れ。
かつては旧国宝指定だったが、現在は指定重要文化財となっている。
京都北野天満宮の伝来書によると源頼光所持の伝説を有し、斯波高経の甥斯波兼頼の手に渡り、子孫である最上氏へ伝わったとされる。
戦国時代を経て江戸時代に最上氏が改易され、大名から旗本に転落しても伝来した。
明治元年(1868年)に手放され質屋へと流れ、明治13年(1880年)に京都府、大阪府及び滋賀県令籠手田安定らの有志が取り戻し、最上家へ返還した。
最上氏は再び流出することを恐れ北野天満宮に奉納したという。
太平記の“鬼切”
田村麻呂から頼光へ
『太平記』に語られる鬼切の由緒が鬼切安綱のものとされる。
伯耆国会見郡の大原五郎太夫安綱が鍛えた太刀で、時の将軍坂上田村麻呂に献上された。
田村麻呂が鈴鹿御前と鈴鹿山で剣合わせをしたときの太刀である。そののち田村麻呂が伊勢神宮に奉納した。
源頼光が伊勢神宮に参拝した際に源氏累代の太刀とするようお告げがあり、伊勢神宮から賜ったという。
『髭切』同一説
鬼切安綱は髭切と同一視、もしくは髭切のモデルとしてその伝承を内包するとの説がある。
これは『太平記』での伝承と、『剣巻』などでの伝承が類似するためである。
ただし、剣巻では髭切と膝丸は満仲が異国の鍛冶に打たせたとあり、太平記の安綱の記述と矛盾点がある。
さらに髭切は源頼朝の法華堂に奉納されていたが鎌倉幕府滅亡と共に焼失したとされる。そのため鬼切安綱と髭切は別の太刀とする説もある。
なお、一般的には鬼切安綱は髭切として扱われることが多い。
江戸時代に流布した酒呑童子絵詞では、太平記での記述のうち田村麻呂の由来は血吸(童子切)に、綱の伝承は鬼切(髭切)に分解、再構築される傾向があるため、江戸時代には別々の太刀として流布されていたようである