概要
TEEとは?
1957年に運行を開始した対航空機用決戦兵器…もとい国際特急。
日本語では「欧州特急」「ヨーロッパ横断特急」「ヨーロッパ国際特急」「ヨーロッパ特急」などとも呼ばれる。
TEEの始まり
1950年代には当時の西ドイツをはじめ、ヨーロッパ各地で様々な特急や急行が走り回っていたが、
折しもこの時期には旅客機が台頭し始め、航空網の整備によって鉄道はシェアを奪われるのではという懸念が出始めた。
そこでオランダ国鉄の総裁ホランダー氏は「空飛べるからって調子こいてんじゃねーぞ!」とばかりに航空網に対して宣戦を布告。
フランス、西ドイツ、スイス、ベルギー、イタリア、ルクセンブルクと協議し、西ヨーロッパ諸国を結ぶ国際ビジネス特急を走らせることにしたのだ。
これがTEEの始まりである。
…ちなみに、運行開始直前にオーストリアが飛び入り参加、
さらに運行開始後の1969年にスペインとモナコが、1974年にはデンマークが加わっている。
運行開始当時のレギュレーション
運行開始当時の列車の仕様は以下のごとしである。
- 最高時速140km/h(勾配線区では70km/h以上)
- できるだけ軽い車輌(軸重18t以下)
- ブレーキは共通のものを使う
- 乗り心地は最高のものにする。騒音や振動もできるだけ抑える
- 1列車の定員は100人~120人程度
- 全車1等車
- とにかくメシ。できたての食事が取れること
- 塗装はクリームと赤のツートンカラーにし、前面部分にはロゴをつける
動力方式
運行開始当初は固定編成方式の気動車を使用していたが、時代が下っていくと列車ごとに需要のばらつきが見え始める。
特に利用率の多い路線だと複数の編成を連結して対応したが、固定編成だとこうした需要の増減には柔軟に対応しづらい。
加えて前頭部分の連結器も国によって違う形のものがあり、いくらブレーキが共通でも他国の編成同士では連結できないという事態が発生した。
さらに各国の鉄道の電化が拡充していったことで、必ずしも気動車が有利とはいえない状況に立たされていた。
結局、電車方式を採用したスイスを除いては機関車牽引の客車列車へと移行していくことになる。
詳しい変遷についてはウィキペディアなども参照されたい。
その後
1970年代になるとこうした国際列車も次第に大衆化していく。そうなってくると、手持ちに余裕のない一般客から
「2等車を連結してくれ!」との要望が多く寄せられ、徐々に2等車の比率が増えていくことになった。
さらにこの時期には本来の「国際特急としてのTEE」はだんだんと影が薄くなり、西ドイツ、フランス、イタリアで「国内線のTEE」が増えていくこととなる。
1971年には西ドイツが新種別「インターシティ」を導入し、国内TEEを全てこれに改称。
1970年代も後半になってくると2等車を連結した「国際インターシティ」が登場し、いよいよTEEの種別は消え始める。
1987年には国際インターシティを再編した新種別「ユーロシティ」を新設。
同時に「ラインゴルト」が廃止され、翌年「ゴッタルド」を最後に国際TEEが消滅し、フランスに国内便が残るのみとなったがこちらは1991年廃止。
偽TEE
パリ~ブリュッセル間では航空機との競争が激しい一方、当時の主力だったユーロシティは東側諸国でも使われるほどの汎用種別と化していた。1993年にはイメージ戦略の一環としてユーロシティを再改称する形でTEEを復活。
ところが、これらの列車は2等車を連結した列車であり、実態はユーロシティと変わらない。
再改称された列車の中にはユーロシティ化時点でTEE時代からの全車1等車を維持した列車も含まれていたが、再改称と同時に2等車連結とされた。本来はTEEが全車1等車、ユーロシティが2等車連結の種別だが、この措置は真逆であった。
これが「偽TEE」の誕生である。
終焉
1990年代にはTGVやICEなどの国際高速鉄道網が発達し始め、TEEは1995年をもってその歴史に幕を下ろすこととなる。
TEEの事実上の後継列車である国際特急「ユーロシティ」も、最近はこれらの高速鉄道網に取って代わられつつあり影が薄くなってはいるものの、高速鉄道の恩恵が殆ど無い地域では依然としてユーロシティは存在感を見せている。
余談
ドイツ出身のテクノグループ「クラフトワーク(Kraftwerk)」がTEEを題材にした曲「Trans Europ Express(邦題:ヨーロッパ特急)」をリリースしている。
関連イラスト
関連タグ
151系/181系など日本国鉄の特急:車体外部の小麦色と臙脂色のツートンカラーはTEEをまねたものである。
アーバンライナー:近畿日本鉄道の特急。こちらの競争相手は新幹線だが、登場した経緯は少し似ている。使用車両の21000系はTEE運用の実績を持つ西ドイツ国鉄ET403形と外観が似ている。