将種
しょうしゅ
概要
将種とは、将軍を輩出する将家や兵家にその出自を持つ者のことを指す。
「将」は鎮守府将軍や征夷大将軍など軍事指揮官を、「種」はその人物の血筋を表す語である。武士が武家や軍事貴族であるのに対して、将種は軍事の専門家として律令制における武官を担った。代表的な伝統的武人輩出氏族に坂上氏・文室氏・小野氏などがある。
歴史
平安時代前期
将種として最も傑出していたのは蝦夷征討(三十八年戦争)で活躍した征夷大将軍・大納言の坂上田村麻呂に代表される坂上氏である。弓馬の道を家風として代々継承し、田村麻呂以降も陸奥守や陸奥介、鎮守府将軍や鎮守府副将軍など、陸奥国の高官を多く輩出している。桓武天皇の第12皇子・葛井親王の母は田村麻呂の娘・坂上春子であり、葛井親王は弓芸を得意として外家大納言(田村麻呂)の遺風があったと称され、田村麻呂の血筋が武芸や軍事において優れていたことが朝廷から認識されていた。
元慶の乱では、大納言・源多が陸奥出羽按察使を兼ねていたが、自らは将種でも兵家でもないため竜虎のように武猛の者を按察使に選んでほしいと辞職を願い出た。朝廷は左中弁・藤原保則を出羽権守に任命して元慶の乱の鎮静化を謀るが、保則は文官を経歴して弓馬の道を知らないことを理由に辞退した。摂政・藤原基経は藤原氏の始祖・藤原鎌足は乙巳の変では武力で天智天皇に貢献したのだから原点に立ち戻るべきだと諭している。保則から鎮守府将軍に推挙された小野春風は陸奥権介・坂上好蔭と共に兵を率いて出羽国へと向かっている。春風は累代の将家で驍勇を賞賛されるほどの武人であったこと、夷語(エミシの言葉)にも通じていたことから起用されたものと思われる。元慶の乱当初は武力で鎮圧しよとしたが失敗し、保則は武力ではなく寛政によって反乱を終息させた。春風は夷語で降伏を促しているものの、将種として武芸で活躍することはなかった。
平安時代中期
蝦夷征討の停止や、寛政によって鎮静化した元慶の乱を経て武官から文官へと転身した将種も現れるが、承平天慶の乱では平将門の陣頭に多治経明、坂上遂高と将種の名が見える。元慶の乱の際に源多が将種でも兵家でもないと上表したように、同じく元皇族やその子孫であった平氏や源氏が武士化したのは、将種を取り込み、実働部隊として配下に置いたためと思われる。
源満仲は武士団を形成する際に坂上党武士団を率いる坂上氏を中心として重用した。系図を辿ると満仲の父・源経基は清和天皇の第6皇子・貞純親王の子で、貞純親王の母は棟貞王の娘となり、棟貞王は葛井親王の子となる。この葛井親王の母が田村麻呂の娘・坂上春子(父は桓武天皇)であり、清和源氏の遠祖に坂上氏の血が入っていたためと推測出来る。