プロフィール
来歴
明治大学在学中の1963年、レスリング全日本選手権にて、フリースタイル、グレコローマンの両ヘビー級で優勝。
翌年、東京オリンピックにフリースタイル・ヘビー級で出場。
卒業後の1965年4月に日本プロレスに入門。同年6月3日に、高崎山猿吉戦でデビュー。
(高崎山猿吉は高崎山三吉・新海弘勝・魁勝司のリングネームで活動、引退後は本名の北沢幹之としてUWF・リングスでレフェリーをした。)
翌1966年6月、日本プロレスを離脱し、豊登が興した『東京プロレス』にアントニオ猪木と共に参加、猪木・豊登に次ぐ三番手として、また一時は登記上の社長にもなった。
しかし翌年あえなく崩壊、斎藤は渡米しフリーランスの道を歩む。
アメリカではミスター・サイトー(Mr. Saito)またはマサ・サイトー(Masa Saito)をリングネームにヒールとして活動。
レスリングの地力を下敷きにした悪党ファイトで西海岸のトップヒールとして活躍、その後フロリダをはじめとするNWAの南部各州、ニューヨークのWWF、ミネソタのAWAと全米各地でタイトル獲得、全米で最も成功した日本人レスラーとなった。
1972年3月、5年ぶりに帰国して古巣の日本プロレスに出場し、1974年4月からは新日本プロレスに日本側の助っ人として断続的に参戦。
新日では。明大の同期である坂口征二ともタッグを組んだが、1978年暮れにヒロ・マツダや上田馬之助、サンダー杉山らとフリーランサー同士によるユニット「狼軍団」を結成し、日本でもヒールに転向。同時期には上田と共に国際プロレスにも参戦、1980年初めまで、新日で外国人サイドの参謀格を務めた。
1983年からは長州力やキラー・カーンとのユニット「革命軍」を経て、長州が結成した「維新軍」(後のジャパンプロレス)の参謀格として正規軍との抗争に臨んだ。
1985年1月には1シリーズだけだが全日本プロレスへ参戦、ジャンボ鶴田や天龍源一郎と対戦。
1984年4月にウィスコンシン州の偶然訪れたマクドナルドで事件に巻き込まれたレスラーの逮捕劇に巻き込まれ、宿泊先が同室だったで斎藤が警官数人をなぎ倒してしまったため有罪、1985年6月より現地で1年半の刑務所暮らしを送ることになる。
斎藤は刑務所暮らしの中、肉体改造と「監獄固め」という技を開発し1986年末に出所。
1987年3月、INOKI闘魂LIVE Part2での猪木とのシングル戦に合わせ、日本に帰国。
1987年10月4日、巌流島で行われた猪木との時間無制限ノーレフェリー・ノールール・無観客マッチで2時間5分14秒の死闘を繰り広げた。
1990年2月10日、東京ドームでラリー・ズビスコを破りAWA世界ヘビー級王座を獲得。
これが初のメジャータイトル獲得で、しかもジャンボ鶴田以来の日本人レスラーによる奪取・47歳での獲得は快挙であった。(その後AWAは1991年に活動終了、後年になってWWF(現:WWE)に権利関係を買い取られる。)
1999年2月14日に引退、第一線を退いた後は「ワールドプロレスリング」の解説者を経て2003年に長州らとWJプロレス旗揚げに参画するが、同時に身体的不調も現れてきた。
2005年には斎藤を慕っている佐々木健介が健介オフィス株式会社化の際、斎藤をアドバイザーとして招聘。
2014年から2015年にかけて、故郷の東京に転居したこと、2000年よりパーキンソン病の治療を受けていること、2013年に障害者手帳の交付を受けていたことなどを公表。
それでもリハビリに励み、2020年東京オリンピックの年にカムバックするためトレーニングに励むも2018年7月14日1時5分、パーキンソン病のため死去。戒名は妻の意向によりリングネームと同様に「マサ斎藤」とされた。
得意技
- 捻り式バックドロップ
アメリカでは「サイトー・スープレックス」の別名がある。
- ダックアンダー・スープレックス
1989年にソビエト連邦初のプロレスラーとなったサルマン・ハシミコフがフィニッシュ・ホールドとして使用した際に「水車落とし」と呼ばれるようになった。
- 監獄固め
相手に返されにくいようにするため足部分に重心をかける変形の足4の字固め。マサ斎藤の代名詞。
等々・・・
余談
プロレスラーとしては一貫して荒々しいキャラクターとは裏腹にカルピスが大好きという愛嬌のある一面や、解説者時代に見せた天然ボケとも言えるキャラクターで知られた。
カルピスは「あんなに美味しい飲み物はない」というが、さすがに「原液をそのまま飲む」のは無理だったらしい。